国際マーラー音楽祭(3)「マーラーは現実がお好き?」



 マーラーの未完の交響曲《第10番》。デリック・クックは1960年、そのままでは演奏できない状態で残されたスコアや草稿、清書前の楽譜などを研究し、演奏可能な校訂楽譜の制作に着手します。その後、協力者としてゴルトシュミットやマシューズ兄弟らが参加。クックの死後も協力者たちによる改訂が進み、《第10番》の優れた補筆が世に出されました。クック版は、偏りのない丁寧な校訂作業に支えられたので、その細部までマーラーの考えた通りに再現しているわけではないにしても(原理的にそんなことは不可能)、「マーラーの考えた設計図」には相当肉薄していると思います。
 5月20日準メルクル指揮、中部ドイツ放送交響楽団(MDR交響楽団)が演奏した《交響曲第十番 嬰ヘ短調》は、このクック版。この演奏が非常に興味深いものでした。結論から言うと「安いロマンティシズムで大切な現実を防御する」第10番。なぜそう言えるのか。順を追って見て行きましょう。
 《第十交響曲》は5楽章構成。一般にシンメトリー構造を採っていると言われています。「I. アダージョ」「II. スケルツォ」「III. プルガトリオ」「IV. スケルツォ」「V. フィナーレ」と並ぶ楽章。「I. アダージョ」と、「V. フィナーレ」の後半のアダージョ部分とは楽想を共有しています。その両者に挟まれて、より速度が速い3つの楽章が並びます。中心の「III. プルガトリオ」は「煉獄」の意。天国と地獄の中間にあると言う拘置所のような場所です。この第3楽章の草稿や略式総譜には、妻アルマヘの呼びかけの言葉が多く書き込まれています。これは、妻と建築家グロピウスとの浮気に気づいたマーラーの、芝居がかった独白です。また第4楽章の略式総譜には、アルマとともにニューヨークで見た葬儀風景ヘの言及があり、その葬儀で用いられていた「覆い付きの太鼓」が書き込みの箇所、すなわち楽章の最後に実際に登場します。
 こうした書き込みなどから《第十交響曲》は、マーラーのアルマに対する思いの丈を表現していると考えられてきました。愛の理想世界を夢見て(I.アダージョ前半)、アルマに思いを寄せ(I.アダージョ後半, II.スケルツォ)、裏切られ(III.プルガトリオ)、死を思い(IV.スケルツォ, V.フィナーレ前半)、ふたたび愛の理想世界へと帰る(V.フィナーレ後半)。理想世界(I.前半 V.後半)に現実世界(I.後半 II. III. IV. V.前半)が挟まれた構造をしているわけです。まあ、ここまでは妥当な線。問題は理想世界と現実世界、どちらをより大切なものとして描くかということです。

 さて曲の内容は一旦置き、当夜の演奏者、準メルクルと中部ドイツ放送交響楽団(MDR交響楽団)について。日本でもおなじみのメルクルは、楽団を細部までとことんコントロールするような指揮ぶりですが、実は楽員をそうとう泳がせているので、MDRは指揮者の振り方とはまるで逆の「荒削りで気ままな音」を出します。この「荒削りで気ままな音」が当夜、現実世界(I.後半 II. III. IV. V.前半)の諧謔的な様子を上手く表現しました。
 個性的(で少し下手っぴ)な管楽器が色鮮やかな現実世界を活写する一方、弦楽器の味のある(不揃いな)響きが理想世界を安っぽいロマンチシズムへと堕落させます。マーラーは、アルマによって苦しめられた現実世界にこそ並々ならぬ愛着を感じており(完全にマゾヒズム)、その大切な現実世界を安っぽいロマンチシズムの盾で防御している、といった趣。
 これはなかなか興味深い解釈で、当方としては聴き応えのある愉快な演奏でした。ふつう現実世界は苦しみの場、理想世界はその苦しみを洗い流すところとして描きますから、メルクルの解釈は全くの逆張りです(メルクルのほうがニーチェに近い)。実際、前夜のサロネン&シュターツカペレが《第10番》を演奏したら、当夜とは正反対の解釈になったはず。すなわち、色気のない砂をかむような現実世界を、絹のように滑らかな理想世界が優しく覆い隠してしまう、といった具合。当方としては、生々しい現実を肯定的に描いたメルクルのほうに一票を投じたいところ。
 シュターツカペレ・ドレスデンと比べればMDRの腕前は、とりわけ弦楽器パートで見劣りします。しかしそれをMDRの個性と見極め、《第10番》の構成と擦り合わせ、たぐいまれな解釈へと昇華させたメルクルに拍手を送りたいと思います。要は楽団の個性の活かしどころを間違えない、ということです。その点で、シャイー&ゲヴァントとメルクル& MDRのライプツィヒ組は上首尾、サロネン&シュターツカペレには若干ケチがつきました。
 21日は、期待の1975年生まれ、ネゼ=セガンが、バイエルン放送交響楽団と《交響曲第七番 ホ短調》を披露してくれます。応援してるぞ、同世代!


追記「楽章の構成について」
 各楽章がそれぞれ「愛の理想世界を夢見て(I. アダージョ)、アルマに思いを寄せ(II. スケルツォ)、裏切られ(III. プルガトリオ)、死を思い(IV. スケルツォ)、ふたたび愛の理想世界へと帰る(V. フィナーレ)」と考えられるのは先述の通り。理想世界と現実世界、どちらに重きを置くかという問題にも触れた。
 本文で触れていない重要なことに、「理想世界(I.前半)-現実世界(I.後半 II. III. IV. V.前半)-理想世界(V.後半)と線的に考える」か「理想世界(I.前半 V.後半)と現実世界(I.後半 II. III. IV. V.前半)とを同時並行的に存在するパラレルワールドと考える」かという問題がある。
 時間芸術である音楽、とりわけ20世紀初めまでの音楽の場合、調和しない内容を持つ題材を同時的に示すことが難しい(調和する内容だったらポリフォニーで表現するという手もある)。したがって、理想世界と現実世界とを順に示すしかない。順に示すとそれぞれの内容が、あたかも一直線上に並んだかのように感じられる。
 マーラーは《交響曲第十番》の両世界をたまさか順に並べたけれど、実は同時並行的に存在するパラレルワールドとして構想した、と当方は考えている。理想世界にあたる第1楽章前半と第5楽章後半は、強烈な不協和音部分を結節点として連結するひとまとまりの世界で、不協和音部分はワープトンネルのようなもの。「その一方で」現実世界はそれと同時に存在している。
理想世界(I.前半) - 現実世界(I.後半 II.III.IV. V.前半) - 理想世界(V.後半)
という単線ではなく、
理想世界(I.前半-不協和音部で結節-V.後半)
現実世界(I.後半-II.-III.-IV.-V.前半)
という複線構造。
 こう考えたほうが、理想世界と現実世界、どちらに重きを置くかという問題もすっきりする。両世界を単線的に理解すると、一定の時間内に世界はひとつなので、すべての楽章(つまり両世界とも)を重要、ないし重要でないと判断することにつながり、表現上のメリハリが付けにくい。一方、複線的に理解すると、理想世界が鳴り響いている時も現実世界が、現実世界が鳴り響いている時も理想世界が同時的に存在しているわけだから、どちらかに重きを置いていなければならないし、そのほうが表現上のメリハリも付く。


写真:(上)中部ドイツ放送交響楽団/(下)準メルクル
       2011年5月20日, ライプツィヒ・ゲヴァントハウス大ホール