バーデン・バーデン ペンテコステ音楽祭2015(2)



 クリスティアンティーレマンの指揮、ザクセン・シュターツカペレ・ドレスデン管弦楽で、ブルックナーの第4交響曲(5月23日)と第9交響曲(5月24日)を聴いた。
 バーデン・バーデン祝祭劇場は欧州最大級のオペラハウスで、座席数2500。ヨーロッパの劇場は一般的に、縦長のプロセニアム・アーチ(額縁舞台)が特徴的だが、祝祭劇場は舞台の間口がとても広いので、上空に目をやらない限り、まるで歌舞伎の横長舞台のような印象を受ける。しかし実際は3階5層構造(正面は階段座席3階分、上下手の壁面はロージェを含む5層分)で、上方にも空間は広がっている。総体としてかなり大きな箱だ。大きさのわりに乾いた音響は、言葉を聴き取るという点を重視した結果だろうか。
 こういうところでの演奏は「間」が物を言う。乾いた響きの点からすると、のんびりとし過ぎた語り口は間抜けだし、会場の大きさの点からすると、あまりにそそっかしい運びもまた、落ち着きがないということになる。これは「基本テンポの速い遅い」の問題というよりもむしろ、どこを詰めてどこを延ばすかという速度対比(アゴーギク)の問題だ。この速度対比が、作品の緊張感の推移を描く筆のひとつとなる。
 この点でティーレマンという指揮者は、実に鋭く、(予想に反して)実に”現代的”な感覚を持っている。人間の生理に敏感なのだ。時代がかったアゴーギクを大上段から振りかざすわけではない。たとえば聴き手は、旋律が「♩♩|♫♫|♬♬♬♬」と進むと、エネルギーが増大していくと感じるだろう。加速しながらこのリズムを打てば、前のめりの尖った緊張感を、一方でわずかに減速しながら打てば、広がりながら力を積み増すような重量感を表現できる。インテンポ・加速・減速。同じリズム打ちでも明らかに、異なる姿を導けるわけだ。ティーレマンは、こうした人間の生理に基づく速度法に長けている。歌と心中した(はずの)指揮者ならではの能力だ。
 これはバリトンのゲアハーハーや、ヴァイオリンのクレーメルとの共同作業で、力を発揮した。ソリスト管弦楽を合わせる、というのはもちろんのこと、ソリスト管弦楽の間合いに引きずり込むことができる。独唱(奏)者の人間としての間尺と、ティーレマンの間合いの平仄が一致しているからだ。
 ティーレマンはこうした「繊細な速度法による緊張感の彫琢」を、音楽表現の第一義的な課題と捉えている。それは「和声進行を掘り下げることで緊張感の推移を強調する」といった手を、端から放棄していることからも、はっきりしている。ティーレマンの演奏には、和声感(和声進行がもたらす緊張感の推移を表現する意欲)が欠如している。和音が鳴り、それが移り変われば、和声進行の芯である緊張感の変化は「自ずと」そこに鳴り響いていて、演奏家がそこに余計な手当てをする必要はない。ティーレマンはこう考えている。しかし仮にそうだとすると、ティーレマンが行う「繊細な速度法」もまた「余計な手当て」ということになる。
 速度法の繊細な扱いも和声の彫琢も、いずれも重要で、どちらも音楽には必要な事柄だ。問題は、緊張感の推移を描くのに際して、速度法に重きをおくか和声に重きをおくか、ということだ。少し乱暴かもしれないが、次の例は理解を助けるだろう。バッハの《平均律クラヴィーア曲集第1巻》の第1番、ハ長調前奏曲を(1)速度法だけの演奏〔具体的には単音(たとえばC)でリズムだけを刻み、しかるべきところに緩急をつけ緊張感の変化を描く〕と、(2)和声進行だけの演奏〔リズムを取り去って和音だけを押さえるが、その際、音色変化などを利用して緊張感の推移を強調する〕とで比較してみればよい。どちらがより曲の原形をとどめているか。どちらが第一義的な問題なのか。
 つまるところ、ティーレマンの「繊細な速度法による緊張感の彫琢」は、彼の優れた特質のひとつだが、それを音楽表現の第一義的な課題とするのは誤りだ。和声的緊張感の変化がごくごく薄いブルックナーはつまり、形は大きいけれど詰め物のない巨大風船のようなもの。重量級の管弦楽団が取り組んだところで、作品本来の重さは表現できない。2曲の交響曲は、そんなティーレマンの長所と短所とを同時に教えてくれた。その長所からは、彼を信奉する聴き手や演奏家が多い理由が分かる。一方、短所からは、彼の演奏に”音楽”が足りないことを指摘する聴き手や演奏家の絶えない理由も、立ち上ってくる。


写真:フリードリヒ浴場(バーデン・バーデン)

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