バーデン・バーデン ペンテコステ音楽祭2015(1)


 ドイツ南西部の温泉場バーデン・バーデン。ここには、大陸ヨーロッパには珍しい民営のオペラハウス、バーデン・バーデン祝祭劇場がある。2013年、ザルツブルク復活祭音楽祭の向こうをはり、ラトル&ベルリン・フィルをあちらから引き抜いてメインキャストに据え、イースター音楽祭を始めた。なかなかの剛腕。
 そんなバーデン・バーデンが、今年のペンテコステ音楽祭に呼んだのが、ティーレマンザクセン・シュターツカペレ・ドレスデンベルリン・フィルの後、ザルツブルク復活祭の「顔」を務めるコンビだ。その「顔」をバーデン・バーデンは、当地の聖霊降臨祭に呼び寄せた。この民間劇場が「本気」でザルツブルクの客を奪いにかかっていて、とても面白い!
 その他、ヴィリャソン演出、ペレチャッコ題名役、ヘラス=カサド指揮と、若い力を結集した「椿姫」、アンドラーシュ・シフのオール・バッハ・プログラムなど、見所が多い。とりわけ前者は、バルタザール・ノイマン・アンサンブルがピット入り。これも興味深いところだ。

 くだんのティーレマン&シュターツカペレ・ドレスデンは、ブルックナーの第4交響曲と第9交響曲とを披露する(5月23日, 24日)。初日のゲストはバリトンのゲアハーハー、2日目のゲストはヴァイオリンのクレーメル。「祝祭」だけあって実に豪華。今回は初日の前半、ゲアハーハーの”オペラ・アリアの世界”を紹介する。
 プログラムは凝っていて、ワーグナーの作品とシューベルトの作品とを組み合わせて、ひとつの流れを作るもの。

(1)ワーグナー「気高い仲間を見渡せば Blick ich umher in diesem edlen Kreise」(歌劇「タンホイザー」より)
(2)シューベルト「身を横たえ憩う狩人が Der Jäger ruhte hingegossen」(歌劇「アルフォンソとエストレッラ」より)
(3)ワーグナーライラックが香しく Was duftet doch der Flieder 」(歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」より)
(4)シューベルト「ようこそ、ああ、太陽よ Sei mir gegrüßt, o Sonne」(歌劇「アルフォンソとエストレッラ」より)

 (1)ドイツの勇士の集いで「愛の泉」の歌を歌い、(2)狩人の夢に現れたまやかしの愛を嘆き、(3)改めて歌の真の姿を鳥の鳴き声に聴き、(4)再び昇る太陽に「ようこそ」と語りかける。いずれも初夏の歌。愛をめぐる思索、歌い手として歌うことの意味、人生の機微、国民国家の存亡。抽象度を高く見積もれば、おのずと色々な物語へとつながっていく。聴き手はそれぞれに、その「語り」を噛みしめることになる。内容と季節と楽想とが密接に関連付けられた、実によいプログラムだ。
 ゲアハーハーはいくつかのキャラクターを演じ分ける。さらにどのキャラクターでも、音域の高低で声色を変化させる。キャラクター x 音域の違い=声色の種類の多さ、というわけ。そこに物語に即した滑舌や勢いを加味する。演目の組み立てから、そのリアライゼーションまで、とても高い水準で仕事が行われていく。だからこそ、聴き手の共感度も高まる。
 そこにティーレマンが合いの手を入れる。正確に言うと、「間」を支配していたのはティーレマンだ。この指揮者の特質はこの「間」なのだ。ソリスト管弦楽を合わせる、というのはもちろんのこと、ソリスト管弦楽の間合いに引きずり込むことができる。ティーレマンは、間合いの取り方こそが音楽の第一義的な課題と考え、その「間」によって緊張感を彫琢していく。だからソリストは、その間合いのもたらす緊張と緩和の渦に巻き込まれていく。
 このたびのゲアハーハーとティーレマンとの共同作業は、この間合いの取り合いが丁々発止となり、その分、張り詰めた空気と緩んだ雰囲気との行き来を、諧調豊かに描きだすことにつながった。大成功だ。とてもよい夜。
 ただ、気になることもある。ひとつは、プログラムに「世界に冠たるドイツ」を称揚する意図が色濃く出ている点。もちろんお国自慢が悪いわけではない。ドイツ(語圏)文化の懐の深さには敬意を表する。ただそのお国自慢は「したり顔」でするようなことなのか。誰の、とは言わないが、狭隘な愛国心が鼻に付く。もうひとつは、「間合い」を手練のひとつとして音楽を彫琢するのはよいとして、それは第一義的な課題なのか、ということ。そうでないことは、ブルックナーの2つの交響曲が証明してくれるだろう。
 いずれにせよ、当夜の「音楽的価値」はゆるがせにはならない。佳演である。


写真:バーデン・バーデン祝祭劇場


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