ドイツ音楽祭めぐり2013 ― 復活祭編(5)



オペラ2題 ― モーツァルト魔笛》編

 第1回バーデン・バーデン祝祭劇場イースター音楽祭の目玉はなんといっても、モーツァルトの《魔笛》だ。ブレスリク(タミーノ)、ロイヤル(パミーナ)、イヴァシェンコ(ザラストロ)、ドゥルロフスキ(夜の女王, ケルメスから変更)、ナジ(パパゲーノ)、ミューレマン(パパゲーナ)のほか、三人官女にマシス、コジェナー、シュトゥッツマン、演出はカーセン、管弦楽はラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
 単なる情報の羅列なのにいやに興奮を誘う並びで、個人的には三人官女にノックアウト。とは言え、やはり聴いて、観て、劇場に身を置いてこそのオペラ。抜かりのない音楽と愉快で趣深い芝居とが繰り広げられなければ豪華な布陣も意味がない。
 その点で当夜の舞台は安心して楽しめる水準で、割かれたリソースの大きさが充分に反映されていた。観たのは3月26日、4公演の2日目。ポイントは(A)劇場の大きさと管弦楽との関係、そして(B)2013年のイースターに特化した演出、の2つだ。


祝祭劇場のスケール

 バーデン・バーデン祝祭劇場は欧州最大級のオペラハウスで、座席数2500。一般的に歌劇場は縦長のプロセニアム・アーチ(額縁舞台)が特徴的だけど、祝祭劇場は舞台の間口がとても広いので、上空に目をやらない限りまるで歌舞伎の横長舞台のような印象を受ける。しかし実際は3階5層構造(正面は階段座席3階分、上下手の壁面はロージェを含む5層分)で、上方にも空間は広がっている。総体としてかなり大きな「箱」だ。大きさのわりに若干乾いた音響は、言葉を聴き取るという点を重視した結果だろうか。
 さて、こうした場所で《魔笛》を演奏するとなると少し難しい。ドイツ語の台本の持つ間合い、それを活かし切るモーツァルトの音楽を大切に考えれば、そうのんびりとしたテンポ取りは出来ない。やはり対話のテンポ感が音楽に表れないと「間が悪い」と感じるだろう。いっぽうで祝祭劇場のように現代の大きな「箱」が会場となると、その速さは「早回し」に聴こえなくもないだろう(古い喩えだが「象の時間、ねずみ時間」)。
 当夜、ラトルの間合いは鷹揚だった。ギリギリ遅いかな、くらい。ジングシュピール演奏としては間の抜けたものになりかねない限界ライン。放送で聴いたら多分「間抜け」認定だろう(当社比)。でも、劇場の大きさを肌身で感じているラトルと客席の聴衆にとっては最適解と言える。


子音の立った管弦楽、バランスに少し難ありの歌手陣

 テンポの問題はそうだとしても「演奏の歯切れの良さ」が失われたわけではない。幕間にピットをのぞき見たところ、編成はおそらく弦楽25人ほど、管打で20人ほどの計50人弱。機動性は充分で、特に重要だったのは弦楽各パートの「子音」がきちんとドイツ語だったこと。これは「ドイツのオーケストラだから当たり前」という次元の話しでは決してない。《魔笛》で鳴っている音を「言葉」と考えるか単に「旋律」と考えるかという問題。ラトル&ベルリン・フィルは(徹頭徹尾とは言わないまでも)「言葉」として考えていたことがサウンドから聴いて取れる。弓づかいや息づかいによって実現されるアタック音が多彩で、その多彩な「子音」ひとつひとつがパート内できちんと統一されている。この点に手抜きがないので、会場の大きさとトレード・オフで間合いが鷹揚になっても、決して間抜けに聴こえない。
 歌い手ではパパゲーノのナジに拍手を。夜の女王ドゥルロフスキはパワフルな三人官女マシス・コジェナー・シュトゥッツマンに喰われ気味。代役ゆえ仕方ないか。しかし、ケルメスが降りたことによるこのアンバランスさは、やはり残念だった。このパワーバランスが整っていたら、と想像するとちょっと震えが来る。


復活祭に焦点を合わせた演出

 演出は難解どころか極めて明快。パミーナの肖像が「iPad」で示され、その画面の様子がホリゾントに動画として投影されたりといったことはまあ「お楽しみ演出」。重要なのは「墓」と「目隠し」だ。
 光の国であるザラストロの世界への入り口が「墓穴」なのはもちろん、キリストの死と埋葬を引用してのこと。つまり「死と復活」が新しい世界へのパスポートなのだ。キリスト教徒はイエスの死と復活を信じる。自らも千年王国が到来する時に墓から身を起こし、神の裁きを受ける。そして新しい世界へと歩みを進める。カーセンの演出はキリスト教の教義と軌をひとつにしている。タミーノやパパゲーノがイニシエーションを受けるために墓の中に降りていくのはまさに、生まれ変わりへの道を歩んでいることを表す。光の国の住民が地底の棺桶から這い出てくるのは、彼らがすでに生まれ変わった存在だからだ。
 ではイニシエーションに際して「目隠し」をするのは?使徒行伝のサウルのエピソードを思い出してもらいたい。画題としても有名なこの話し、ダマスコスの街へキリスト教徒の迫害に向かうサウルに天上のイエスが声をかける。「サウル、サウル、お前は何故私を弾圧するのか」。この一件で視力を失ったサウルはダマスコスに入り、三日間、暗闇の世界をさまよった。その後、イエスの弟子アナニアスに出会う。アナニアスがサウルに手を置いて祈るとサウルの目から鱗のようなものが落ち、彼は再び見えるようになる。サウルは街に出てイエスを神の子と宣言し、キリストの教えを宣べ伝えだした。「サウルの回心」とよばれる出来事だ。ここから明らかなように「見えなくなり、再び見えるようになったときには新しい世界が見えている」という含意が「目隠し」にはある。「死と復活」のミクロ版が「失明と復光」なのだ(フリーメイソンの思想が「啓蒙」[蒙を啓く] だったことにも注意を向けるべきだろう)。だからイニシエーションとして目隠しをすることは、キリスト教に親しんだ聴衆にとっては「サウルの失明と復光、回心と宣教」を思い起こさせる。
 いずれも第1回のイースター音楽祭で初演を迎える新演出として相応しい差配。ベルリン・フィルザルツブルクの「蒙昧」から啓かれ、バーデン・バーデンという「新しい世界にやってきて」そこに「千年王国を築く」とも解釈できる(穿ち過ぎか)。重層的で、読み取れることは多くあるにせよ、決して難解ではない演出。「ちょうど好い」程度の含意だったのではないか。聖書の知識がないと分からないかもしれないが、客席のほとんどの西洋人には問題はなかろう。


魔笛》まずまずの成果!

 このあたりの演出に筋が通っていたこと、さらにこうした演出を音楽が誤解なく聴き手に届けることができた点で、当夜のオペラは成功したと言える。やはり贅沢にリソースを割いたオペラは観ていて気分が好い。当たり前と言えば当たり前なのだけど、この高級路線がどこまで維持できるか興味深い。「リソース割いても2晩しか公演しない、もったいない」という理由でザルツブルクを出てきている以上、バーデン・バーデンでの商業的な成功は宿命づけられている。


写真:サイモン・ラトルベルリン・フィルハーモニー管弦楽団 (C)manolo press

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