シューベルトはダクテュロス ― ブリュッヘン&新日本フィル



 東京の音楽シーン、4月前半の目玉は誰がなんと言おうと「ブリュッヘン祭り」。主催者は「ブリュッヘン・プロジェクト」なるうっすらとクールな名前を付けているけれど、この半月はプロジェクトを遂行するためのビジネスライクな期間だったのではなく、どこか神聖で、それでいて人間を置き去りにしない「熱き祭りのとき」だった。それに向けて僕は、わざわざドイツの温泉地バーデン・バーデンまで行って斎戒沐浴したほどだ(うそ)。
 そんな日々も終わりを迎える。4月15日、最終日となる第4夜は新日本フィルハーモニー交響楽団すみだトリフォニーホールのステージに上がった。当夜ブリュッヘンが指揮したプログラムは、シューベルトの《第5交響曲》と《グレイト》。どちらも作曲家が執着した韻律「ダクテュロス」に彩られた楽曲だ。
 僕にシューベルトを教えてくれたのはH先生。いまでもこの作曲家の曲を聴くと「シューベルトはダクテュロスねえ」という先生の艶かしい声が脳内に響き渡る。ダクテュロスというのはギリシアの韻律の一種で「長短短のリズム」を指す。歌曲はもちろんのこと器楽曲でも、このリズムへの偏愛が見られるという(たとえば《八重奏曲》など)。この「長短短」をときには「長――」ときには「長―短」ときには「短短長」ときには「短長―」へと展開。さらにそれらを拡大縮小しつつ旋律を前に進めていくのがシューベルトの流儀だ。《第5交響曲》も《グレイト》もご他聞に漏れずそういう作りになっている。
 演奏の推進力はこの韻律の造形にかかっている。それを司るのが通奏低音通奏低音は17・18世紀の西洋音楽にみられる一体的な低声部のことで、シューベルトの頃には演奏習慣としては廃れている。ところが20世紀の前半まで、通奏低音の重要な役割のひとつである「語り」は、チェロ・パートの中に生き残っていた。廃れたはずの演奏習慣が命脈を保っていたというわけだ。
 19世紀もももちろん、チェロは「語る楽器」だった。チェロに語らせるためにシューベルトは、交響曲で「韻律」を利用した。《第5交響曲》や《グレイト》で言えば、ダクテュロスとヴァリエーション、そしてその拡大縮小とを、「種々の単語」や「さまざまな言い方」として各パートに割り振り、そのまとめ役としてチェロを指名している、といった次第。
 2つの交響曲をこういう視点で眺めない指揮者もいる。でも僕らのブリュッヘンは違う。違うということは18世紀オーケストラの演奏を聴けば明らかだ。弓づかいの自然さ(力動性)、緊張と緩和の彫りの深さ(和声性)、子音=発音の多彩さと句読点の抜かりなさ(言語性)がチェロから全オーケストラへと広がっていく。これが18世紀オーケストラ
 そんな演奏を3晩も立て続けに聴いた耳には当夜のチェロは、両手の人差し指で口を横に開けたまま「学級文庫」って言う、あの遊びみたいに聴こえる。その発音は「あっいゅううんぅお」のように母音がち。音の高さと長さは「ガッキュウブンコ」と同じなのだけど、やはり「ガッキュウブンコ」と「あっいゅううんぅお」とは別の代物だ。たとえ音程やリズムに狂いがなくても、言葉として聴こえるべきものが言葉として聴こえなければ不首尾と言うほかない。これが当夜のチェロ。
 こうなると、詩の韻律を音楽の動力源に据えたシューベルトのプログラムは発動しない。とは言えシューベルトは、それだけで瓦解するようには音楽を書いていないし、ブリュッヘンもそれだけで演奏がご破算になるような指揮をしているわけではない。どちらも一筋縄では行かない音楽家。たとえばシューベルトは、韻律の推進力に和声の緊張と緩和や旋律の力動性、音色の推移や強弱法を密接に結びつけている。つまり、どこか1つ2つの「故障」で音楽全体が損なわれるということがないように、多重防護を施した駆動装置を交響曲に搭載した。この場合だと韻律の推進力は損なわれたけれど、ほかの要素は生きているので、運転手のドライビング・テクニックさえ優れていれば前に進むことが出来る。
 ブリュッヘンのドライビング・テクニックは言うまでもなく超一流。当夜は管楽器をフィーチャーすることでこの事態を乗り切った。旋律の力動性、和声の緊張と緩和、音色の推移を管楽器中心に調え、まとめ役を彼らに割り振る。いつもなら(技術的には安定していても)「30年前の音」を出す第1フルート氏が、この日は18世紀オーケストラ顔負けのバロックアーティキュレーションで指揮に応えたり、常に少しだけ目立ち過ぎてしまう第1オーボエ氏が、フルートやクラリネットとの音色作りに滅私奉公するのを聴くにつけ、ブリュッヘンのハンドルさばきのすばらしさを思い知らされる。《グレイト》の第2楽章、新日本フィルの管楽器群がここ数年でいちばんの輝きをみせてくれた。
 結果としてとても心に残るシューベルトを聴くことが出来た。そして新日本フィルは期せずして正念場を迎えた。チェロの「通奏低音」性は20世紀初め(「長い19世紀」末)の音楽までは確実に有効だ。だからチェロ・パートが今後、この「通奏低音」性を身につけるか否かで、オーケストラとしての性能が決まる。ブリュッヘンは大きな宿題を新日本フィルに託して帰っていった。宿題が仕上がったとき、今度は文句なしの共演が実現するような気がする。まだまだ伸びるぞ、新日本フィル!もういちどブリュッヘンと共演だ、新日本フィル

追記1:ついでに言うと《ロザムンデ》第3間奏曲もまごうことなきダクテュロス。すべて「長短短格」でまとめられた一夜。
追記2:正しいイントネーションで「あっいゅううんぅお」というチェロよりも、少しおかしなイントネーションでも「ガッキュウブンコ」と発音する管楽器群の方が端的に偉い。
追記3:ブリュッヘン・プロジェクト第1夜の批評を「モーストリー・クラシック」6月号(4月20日発売)に、第2夜の批評を「月刊ピアノ」6月号(5月20日発売)に寄稿。乞う御高覧。