ブリュッヘンの楽器となった新日本フィル


 ブリュッヘン新日本フィルの「ベートーヴェン・プロジェクト(交響曲全曲演奏会)」も後半戦の第3回。2月16日のプログラムは《第6番「田園」》と《第7番》です(すみだトリフォニーホール)。これまでの演奏会を振り返り、この第3回がいっとうすばらしかったなあ、としみじみ思います。というのも、オーケストラのアンサンブル精度が格段に上がったから。ここでいうアンサンブル精度とは、指揮者の意図を正確に反映する度合いのこと。その意味で《第6》のアンサンブル精度はそうとう高く、この日の白眉はこの《田園》だったと言ってよいでしょう。

 どの楽章も少ない声部で始まり徐々に響きが厚くなっていく、というのが《田園》の音楽上の特徴のひとつ。たとえば、第1楽章は弦楽器の四声体書法で始まり、そこにコントラバスとホルンが加わり、さらに木管楽器群が合流していきます。こういった書法の楽譜をベッタリとしたモダン楽器の奏法/音色で演奏すると、声部が増えるたびに音が雪だるま式に固まって、最終的に大音量というだけの結果になりがち。この日の新日本フィルは各パートの様子が透けて見えるような演奏で、どんなに楽器の数が増えようと、その透明度は少しも落ちません。ですから、各声部が合流した先に待つ強奏部分でも単なる大音量に終わらず、響きの構成要素が克明に感じ取れます。まるでスペクトル分解のよう。

 理由はいくつかあって、第一に各パート(主に弦楽器)内の演奏精度が上がっていること。第二に管弦のバランスを管楽器寄りに配して、両者のバランスの柱をホルンに据えたこと。第三にテンポをほぼ、ベートーヴェン指定のメトロノーム記号通りにしたこと。

 演奏会の2日前、月曜午後の非公開練習を聴いた際、《第6》の状態はお世辞にもよくありませんでした。テンポが遅く、音を保持する時間が長くなるため、弦楽各部の演奏精度が落ち、結果、各楽器が合流した際に声部が混濁して不透明な響きに。

 そんな様子でしたから本番も心配していましたが、杞憂に終わりました。第3楽章は若干遅かったものの、その他の楽章はほぼ、ベートーヴェンが指示したメトロノーム記号通り(秒針とにらめっこで計測)。練習時と比べると全体的に1.2倍ほど速くなった気がします。そのテンポだと弦楽器が演奏しやすいのでしょう、演奏精度が格段にアップ。当然、全体の透明度を高めるのに寄与します。また、サウンドを管楽器寄りに調えているので、管の音色が弦楽器に塗り込められることなく立体的に聴こえてきます。とりわけ、ホール全体を取り巻くように響くホルンの音色は重要です。ブリュッヘンはこのプロジェクトで一貫してホルンの人員を倍にしていますから(《第3》を除く)、立体感の点ではしっかりとした柱が打ち立てられているのです。

 この立体感や透明感はじわじわと聴き手の心奥に迫ります。《第3》や《第5》などにみられるエネルギー放射とはまた違った形。一撃で人の心を撃つのではなく、徐々に聴き手を取り囲んでいき、聴き手はいつの間にか田園のただ中にいざなわれている、といった風情です。そういったベートーヴェンの書法、ブリュッヘンの意図を、この日の新日本フィルはとても良く表現。がぜん《田園》が好きになりました。

 一方の《第7》。この交響曲は舞曲です。ヴァグナーが指摘したような抽象的な意味ではなく、徹頭徹尾、具体的に舞曲です。つまり、それぞれの楽章がジグ、マーチ、スケルツォ、コントルダンスに相当しているのです。したがって第1楽章は、ジグのリズムである長短短格と、その裏返しである短短長格との錯綜(「ターッタラ、ターッタラ」と「タラッター、タラッター」の錯綜)が音楽の要。ところがこの日、管楽器パートのリズムが滑り気味だったことで、このジグ性が薄れてしまいました。

 ジグの長短短格はなかなか難しいリズムで、「長」が少しでも長ければどんどん間延びしていきますし、「長」が少しでも短ければどんどん速くなってしまいます。間延びしたり速くなったりすることを「リズムが滑っている」と言いますが、管楽器パートはまさにその状態で、ジグのリズムが正確に刻めていません。それによりこの舞曲特有の推進力が失われ、楽章の魅力が半減しました。当方、曲の骨組みを壊さないような演奏上の「傷」には寛容なほうですが、曲の本質的な部分を痛めるような傷には目をつぶることはできません。

 ところが、第2楽章からは前曲でのアンサンブル精度が戻ってきました。《田園》の各楽章同様、徐々に声部が増えていくこの楽章も、透明度抜群の仕上がり。この楽章の肝はバス声部の進行と、ホルンを柱に据えた管弦バランスです。コントラバスが奏する
「A↓Gis↓E↑A→A↓G→G↑C→C↓H→H↓A→A↓Gis↑A↓E↑A」
の旋律に乗せ、徐々に楽器が合流していく --葬列の参加者が増えていく-- 様子は圧巻です。しかも、その参加者の顔がひとりひとりはっきりと見えるのです。ホルンがその立体感を支えていることは《田園》のときと同様。

 ここから最終楽章にかけては、弦楽パートの精度、ホルン倍管による管楽器寄りのバランス、それらによってもたらされる透明度と立体感が全体を支配し、まるで《第6》がそのまま引き続いているような《第7》になりました。

 《第7》は《英雄》や《運命》同様「エネルギー放射型」の交響曲だと思っていましたが、実は《田園》と同じく「じわじわ型」だったようです。この日ブリュッヘンが示した《第7》は、透明度と立体感を高め、最終楽章のコントルダンスへとじわじわと舞踏的興奮を高めていく戦略を採っていました。2つ(ないし3つ)の交響曲を比べ、後者の飛躍ぶりを検証するというのがこのプロジェクトの建前だったはずです。しかし蓋を開けてみれば、《第4》と《第5》の「双子性」が白日の下にさらされた第2回と同じく、今回も《第6》と《第7》に共通する「じわじわ性」が明らかになりました。

 この「じわじわ性」がベートーヴェンの目指したところだったかというと、疑問が残ります。しかし、これがブリュッヘンの意図だったことは間違いなく、それを新日本フィルが充分に表現していたこともまた間違いのないことです。その点でやはり、この日のアンサンブル精度はとても高水準。新日本フィルはとうとう、ブリュッヘンの楽器になった、と胸を張って言える段階になりました。《第8》(エネルギー放出型)、《第9》(もしかするとじわじわ型か)にも期待。残すはあと2曲です。


追記:当該演奏会の曲目解説に誤りがありました。目くじら立てるほどのことではありませんが、誤字とか脱字ではなく歴史的事実に関する部分なので、以下の通り指摘しておきます。
<誤り>「一方の第7番は交響曲第8番ヘ長調と共に傷病兵のための慈善演奏会――つまり愛国主義的な色彩が強い公的な演奏会――で初演された」(本文32〜34行目)
<訂正>トル「交響曲第8番へ長調と共に」
<指摘>《第7》の初演は1813年12月8日、ヴィーン大学講堂でのハーナウ戦役傷病兵救済資金調達演奏会。一方、《第8》の初演は1814年2月27日、ヴィーン宮廷大レドゥーテンザールにて(この日《第7》の再々々演つまり4度目の演奏があわせて行われた)。したがって、「《第7》が《第8》とともに初演された」という事実はない。


写真:フランス・ブリュッヘン(1月28日, すみだトリフォニーホール