ロ長調が語ること -- 古楽演奏の一断面

 先日、佐藤俊介のヴァイオリン・リサイタル(10月29日、石橋メモリアルホール)に出かけたところ、めずらしい曲を演奏していました。何がめずらしいって、大バッハの長男ヴィルヘルム・フリーデマンの<チェンバロとヴァイオリンのためのソナタ>ということもさることながら(室内楽作品が少ない)、調がロ長調だったのです。18世紀、シャープ5つのこの調を使うことは稀でした。というのも、鍵盤楽器の古典調律(各種の不等分律)は、調号が多い調になればなるほど長三和音の濁りが大きくなるという特徴をもっているから。ロ長調ともなると、音律の種類にもよりますが、主音と長三度音との距離はピュタゴラス音律のそれとほとんど同じ。簡単に言うと、和音がえらく濁る、ということ。
 だから、鍵盤楽器はそうとう唸りを上げます。そこにヴァイオリンパートが入るともう大変。たとえば、主音(H)の通奏低音に、ヴァイオリンが長三度音(Dis)で応えるようなところ。そこではチェンバロの右手も長三度音(Dis)を含む和音を弾いているはずです。ヴァイオリンが通奏低音のHに合わせようとすればするほど、ヴァイオリンのDisはチェンバロ右手のDisから離れていくのです(ヴァイオリンが20セントほど低い。ちなみに十二等分平均律の半音が100セント)。
 そこから先はもう、語らずとも明らかなように、異様な音響世界です。チューニングしていないかのように聴こえるところもちらほら。居心地の悪さときたらないのですが、この居心地の悪さこそフリーデマンの目指したところ。さもなければロ長調で曲を書かないでしょう。
 そこで演奏上の注意点。調号が多いと長三和音が濁る。それは確かに問題なのですが、一方で旋律線が滑らかになるというメリットもあります。長音階1オクターブの中に2つある半音(mi-fa, si-do)の距離が、調号が少ない場合に比べてグッと近い(miとsiが高い)のです。つまり、ロ長調という選択は、和音の美しさを捨てて旋律の美しさを取った結果ともいえます。だから、和音の濁りには目(耳)をつぶって、旋律線の美しさに邁進するという演奏解釈を取ることが考えられるでしょう。
 他方、和音の濁りを表現のひとつとして積極的に評価するという方向もありえます。つまり、うなりを上げる和音で不安感や浮遊感を醸し出す、ということ。さらにヴァイオリンと鍵盤との「ずれ」までも表現として取り込む。フリーデマンの狙いはこちらのように思われます。フリーデマンという人は、少しあさっての方を向いた音楽家だったので・・・。
 このように、19世紀前半までの音楽を演奏するということの内には配慮すべき事柄がたくさんあって、すべてに目を配るのはなかなか厄介なのですが、その厄介を引き受けてこそ真のプロフェッショナルというものです。日本の西洋音楽界にプロフェッショナルの多からんことを!


写真:ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハの赴任地のひとつ、ドイツ・ザクセン=アンハルトの街・ハレ