アーノンクールの<ミサ曲ロ短調>

4年ぶり3回目の来日

 ニコラウス・アーノンクール。1953年にピリオド楽器の楽団コンツェントゥス・ムジクス・ヴィーンを結成、以後いまにいたるまで古楽の最前線を走り続けて来た音楽家。生涯最後の楽旅の地を日本と定め、バッハ<ミサ曲ロ短調>、ハイドン天地創造>、モーツァルト<ハフナー>&<ポストホルン>の各演目を手に、このたび東京にやってきました。
 10月26日、当夜の演目は、バッハ畢竟の大規模声楽曲<ミサ曲 ロ短調>BWV232。失明直前まで作曲が続けられたこの曲は、バッハの音楽家生涯を締めくくるに相応しい大作です。器楽にも声楽にも高度な演奏技術と典礼知識を要求する<ミサ曲ロ短調>は、演奏家、とりわけ指揮者の実力を知るのに絶好の楽曲。当方、今年はすでにガーディナー(ライプツィヒ・バッハ音楽祭)とヘレヴェッへ(ケーテン・バッハ音楽祭)の<ミサ曲ロ短調>を聴いたので、比較対象の仕込みは充分。期待しつつサントリーホールに向かいます。


発掘物の土を刷毛で払うような丁寧さ -- "Credo" の場合

 表現は細部まで彫琢されています。全体的に緩やかな速度に徹していたのは対位法の綾を克明に響かせるため。ひとつひとつの言葉に寄り添った音色・強弱は、典礼文の説得力をいやが上にも高めます。
 ダイナミクスの幅は必要最小限。無理をせず音量の幅に余裕を持たせておくのもひとつの見識です。50人という古楽としては大きめの規模にも関わらず、アーノルト・シェーンベルク合唱団の音程と音色が精緻に整えられていたのはその余裕のおかげ。世界最高峰の合唱を堪能しました。
 コンツェントゥス・ムジクス・ヴィーンの弦五部は6・6・4・2・2。50人の合唱を支えるのに最小限の編成です。とはいえ、抑え気味の合唱相手ですからこちらも抑制が利いています。器楽が合唱の声部を重複するコラ・パルテのバランスも絶妙。歌を殺さない古楽器の音色が効果を上げています。
 そういった、度を越して丁寧な(褒めてます)音楽作りが活きるのは「クレド Credo」です。バッハは「クレド」の9つの楽章をシンメトリカルに配置。つまり9つを「2-1-3-1-2」とまとめ、中心の3つの楽章に聴衆の意識が向かうように工夫しました。この3つの楽章は「聖霊によりて宿り/十字架につけられ/三日目に甦り」で、イエスの生涯にあたる部分です。中心3楽章のさらに中心が「十字架につけられ」であることには、キリストの受難を重視するルター派教会の考え方が色濃く滲んでいます。このシンメトリー構造、そして中心3楽章、もっと言えば「十字架につけられ」の重要性を表現するには、考古学の発掘にも似た丁寧さが必要だったということでしょう。
 結果として全体の表現は抑え気味で、聴衆は耳をそばだてることになりますが、それは集中力の維持にはもってこい。これなら休憩を入れる必要はなかったのでは、と思わされます。


長所は一転、短所にも -- "Cum Sancto Spiritu" の場合

 以上の特徴は、実際のところ諸刃の剣です。ダイナミクスの幅を狭くとれば、おのずと迫力不足につながります。速度が緩やかだと勢いがそがれます。それらを補う精緻な表現があるにせよ、やはりその点は気になるところ。
 そういった問題が典型的に現れていたのが「聖霊とともに Cum Sancto Spiritu」です。「グロリア Gloria」の最後を飾るこの楽章は、コンチェルタート様式で書かれています。コンチェルタート様式とは、要素の対比を表現の主軸に据えたスタイルのこと。声楽と器楽、ポリフォニーとホモフォニー、強音と弱音、鋭さと丸みといった対立項を1曲に統合する様式です。 
 そんなコンチェルタート楽章である「聖霊とともに Cum Sancto Spiritu」の肝は、第68小節と第72小節に現れる「アーメン(然り、そうなるように)」。この2度の力強い「肯定の言葉」を活かすべく、対比の網をめぐらせる。そこにこの楽章の成否がかかっています。ですから、勢いがそがれないよう相当な速さで突っ走りつつ、高度な対位法を破綻なく実現しなければなりませんし、強弱の対比は大きくとらないとそもそもコンチェルタート様式は成立しません。
 当夜のアーノンクールは「Vivace」とは言いがたい少し緩やかな速度と、抑制の利いた表現とでこの楽章に臨みました。対位法の綾は克明に響きますし、音色はひとつひとつの言葉に寄り添っています。しかし、勢いはそがれ迫力は半減してしまいました。第37小節にはじまるフーガが27小節に渡って大きなうねりを作り、それを受けて長短短の付点リズムの上声部と、オクターブを交互に打つ太鼓バスとが推進力を増幅させつつ第68小節の「アーメン」になだれ込む、という大きな流れに滞りが生じます。対位法の交通整理は万全ですが、「大きなうねり」を作るにはいまひとつ勢いが足りません。太鼓バスを抑制するので「アーメン」直前の推進力に不満が残ります。そうすると「強い肯定」を聴衆に実感させる「アーメン」のカタルシス効果が薄れるのです。
 
アーノンクールの晩年様式

 人間には、衰えゆく身体・勢いと豊かになりゆく知識・経験とのバランスが完全に整う瞬間というのがあります。アーノンクールはすでに、その絶妙なバランスが保たれる時期を脱し、知識と経験が肥大化し、勢いが後退しています。演奏からはかつての刺々しさが薄れ、爆発的な表現とそれによってもたらされるカタルシスは避けられているのです。これはアーノンクールの晩年様式と考えてよいでしょう。そう、アーノンクルは老いたのです。
 誇張を排するのはとても思慮深い判断ですが、音楽に内在する(意義のある)勢いをそぐことまでは評価できない、といったところ。しかし、それこそアーノンクールが到達した老境なのだということです。超一流の演奏に納得しつつも、音楽の熱狂とは距離を置いたアーノンクールの姿勢にほんの少し興ざめする、そんな<ロ短調>であったように思います。
 いずれにせよ当夜の演奏が、これまで日本で披露された<ミサ曲ロ短調>のうちでもっとも優れたものだったことは確かです。終演後のサントリーホールはしばらくのあいだ騒然としていました。聴衆は拍手をやめません。そんな熱狂を見るだに、アーノンクールの晩年様式=老いがいっそうはっきりと浮かび上がってきます。「最後の来日」というだけでない、もっと根本的な「最後」をアーノンクールは東京に残していった。そんな気持ちで家路に着いたのははたして僕だけでしょうか。


指揮:ニコラウス・アーノンクール/合唱:アーノルト・シェーンベルク合唱団/管弦楽:コンツェントゥス・ムジクス・ヴィーン/ソプラノI:ドロテア・レッシュマン/ソプラノII:エリーザベト・フォン・マグヌス/アルト:ベルナルダ・フィンク/テノール:ミヒャエル・シャーデ/バス:フローリアン・ベッシュ/10月26日(火), 於サントリーホール(赤坂)

追記:独唱陣は2流ではありませんが1流にはほど遠い人たち。器楽と合唱が超一流なだけに、演奏水準がちぐはぐで隔靴掻痒です。みな、ヨーロッパで歌声を聴いたことがある人たちですが、これまで感心したことがない。当夜も同じ。ソリストに恵まれたとはおせじにも言えません。


写真:ニコラウス・アーノンクール(10月25日 ホテルオークラ東京での記者会見にて)