下北沢で「メターー」と叫ぶ劇作家・長塚圭史


阿佐ヶ谷スパイダース公演『アンチクロックワイズ・ワンダーランド』
時・2010年1月30日(土) [期間:1月21日〜2月14日]
於・本多劇場(下北沢)
作・演出:長塚圭史/出演:光石研小島聖中山祐一朗伊達暁 ほか



 長塚圭史の最新作『アンチクロックワイズ・ワンダーランド』の公演が始まりました。イギリスでの研修を終えて日本に帰って来た長塚。帰国後第1作をファンは待ち望んでいたことでしょう。公演開始後2度目の週末、満員札止めの盛況ぶりに、観客の期待の高さが見て取れます。タイトルである『反時計回りの不思議世界』とは何を意味するのでしょうか。いよいよ芝居の幕が上がります。
 観念的な前作に対する厳しい批評。作家・葛河梨池(光石研)はそれを反芻しては落ち込んだり、激昂したり。この日も新聞紙上の酷評を蒸し返されたことで機嫌を損ね、家族に当たり散らしたあげくに編集者・野口(池田鉄洋)を従えておもてに出て行きます。
 酒場でくだを巻く葛河と、それをなだめる編集者。そこでファンと称する女と出会い、葛河は彼女の家に転がり込みます。観念的な前作を評価しつつも、もっと刺激的でわくわくする、以前のような作品を書くように葛河に迫る女。そんな女を葛河は、口論の末、階段から突き落としてしまいます。
 この作品は開始から、劇中の「時間・場所」が前後したり、並行したりするように作られています。ですから、それを理解するまで観客はしばらく頭の中に混乱を来しますが、じつは、混乱の根本的な原因はそこにはありません。
 葛河の「観念的な前作」とそれに対する「批評」は、長塚の前作『失われた時間を求めて』とそれに対する「批評」を象徴しています。その意味でこの芝居が、長塚の劇作に関する「自己言及劇(メタ芝居)」であることはまちがいありません。長塚の、と言うよりも「劇作一般」への「自己言及劇」といったほうが正確でしょう。そのことから即座に浮かび上がるのは次のような図式です。

(A)前作と、それに対する批評
↓(B) (A)から(C)への道筋、新しい物語の創作過程を描く
(C)新しい物語、次回作

 (A)から(C)にいたる道筋を描く(B)が今回の芝居である、という理解です。劇中の時間や場所が前後したり並行したりするのは、創作過程、つまり作家の試行錯誤を描いているから。ですから、混乱を招く事柄はすべて、自己言及性から発します。ただ、たしかに(B)は自己言及的ですが、これは一重の自己言及。この作品の自己言及性は、じつは「二重」なのです。すなわち、

(A)前作と、それに対する批評
↓(B) (A)から(B)への道筋を描く「物語世界の物語」
(B)新しい物語、次回作

 (A)から(B)にいたる道筋を描く点で一重の自己言及、さらに、描かれる(B)と描く(B)とが一致してしまっている点で二重の自己言及が起こっています。この「二重自己言及性」が混乱の根本的な原因です。「僕は嘘をついている」や「自分自身を要素として含まない集合の集合」といった自己言及文に面食らうのと同じことが、この芝居でも起こっているわけです。

 さて、この自己言及性を意識しつつ、劇中の出来事に目を向けてみましょう。
 ひとつは、(B)に登場する人物がときに無意識・無目的に突き動かされたり、逆に自らの「意志」で行動しているように思えること。登場人物が無意識のうちに突き動かされる、とは「見えざる神の手=作家」が彼らを駒のように動かしているからに他なりませんが、登場人物が自らの「意志」で行動するとはどういうことでしょうか。作家の視点からすれば、自分が描いているはずの人物が勝手に動き出してしまう「あの瞬間」、いわゆるオートマティスムの境地を示しているに違いありません。
 ひとつは、「(A)前作と、それに対する批評」を承けて今作が書かれて行く様子が描かれていること。(A)を制作の契機として(B)が書かれ、(B)を契機として(C)が・・・と続いていくラインの一部を切り出しているよう。この「ライン」には制作論のひとつ、オートポイエーシスの図式がそのまま当てはまるように思えます。
 もうひとつは言語化の問題。葛河の次回作のアイデアとして「身体は植物状態なのに、意識は健常時と同じように働いている人」が登場します。これは、書きたいことがあるのに書けない作家の象徴である点で自己言及的です。しかし、このことは、「アイデアはあるが言葉が追いつかない」といった、作家の個人的な言語化能力の問題なのではなく、「言語の限界」の問題を孕んでいるのではないでしょうか。言語では語れない事柄をどうにか語りたい、しかしできない。「『お前をゆるさない』というメモ書きを、動けないはずの植物人間が書き残した」という発想は、ヴィトゲンシュタインが「語りえぬものについては沈黙しなければならない」と『論理哲学論考』の最後に記したことと軌をひとつにしているようにも思えます。

 こうして自己言及の視点から考えてみると、散らばっていた諸々の事柄に一応の説明がつきますから、訳が分からない芝居ということにはなりません。では、こういった芝居を書いた長塚をどう評価すればよいでしょうか。劇作の深奥は語れない、だから自己言及的に示さざるを得ない。これが長塚の結論だったのでしょう。それには全面的に首を縦に振りたいところです。しかし、長塚のこの結論は、無限後退を余儀なくされる自己言及の病であるなあ、と思わざるを得ません。長塚がこの芝居でしようとしたのは、逃げ水を捕まえるようなことだったわけで、それははなから成功する事柄ではないのです。描き方を描いたけれど、つぎはその描き方の描き方を描かなければならない・・・。劇作の仕方を劇作したけれど、つぎは劇作の仕方を劇作したその仕方を劇作しなければならない・・・。以下、無限後退
 ヴィトゲンシュタインの思索期区分に倣い、この自己言及の病への罹患をもって、ここに「前期長塚圭史」が完成したと宣言します。私は、今作で前期長塚が終わり、中期長塚ないし後期長塚の扉が開かれたと考えます。この扉がどちらの方向に向いているかが重要なわけですが、ひとまず、青年期をみごとに乗り切った長塚圭史を心から言祝ぎ、この小さい文章を餞の言葉といたします。


長塚圭史の前作『失われた時間を求めて』についてはこちら