アルフレート・ブレンデルのこと


 ブレンデルに何かと縁がある。と言っても、行く先々で彼の演奏会に出くわす程のこと。ヴィーンで、ハンブルクで、ベルリンで。それとて彼の旺盛な演奏活動が理由に他ならないわけだ。しかし、今まで彼の演奏に感心したことはなかった。知的で中庸とされる彼の演奏スタイルも、古楽隆盛の昨今、19世紀来の演奏伝統にどっかりと腰を下ろしたもの(のうちで中庸)にしか感じない。
 11月1日に足を運んだのは、サイモン・ラトル指揮、ベルリンフィルの演奏会。ブレンデルモーツァルトの<協奏曲第24番ハ短調>K491を独奏した。会場はカラヤン・サーカスのあだ名で有名な、ベルリンのフィルハーモニー
 なるほどこの晩も、知的な演奏。弦楽器との掛け合い(高音域)と管楽器との掛け合い(中音域)とでピアノの音色を変え、ピアノが器用な楽器であることを示す。もっとも、モダンピアノでは苦労する音色変化の操作も、そもそも音域による音色に大きな違いのあるフォルテピアノならば、自然とそうなること。ブレンデルの解釈は妥当だ。
 そう、ブレンデルの演奏は知的で中庸で妥当なのだ。だから「善い演奏」だけれど、惹きつけられるような音楽かどうかはまた別問題。その点に煮え切らないものを感じてきた。
 でも当夜の演奏は少し様子が違う。ハ短調という調性のせいか、はたまた、ラトルが古楽的アプローチの小編成オケを採用したせいか。指揮者のラトル、オーケストラの団員はもちろん、ブレンデルからも情念が渦巻いているように感じる。
 たとえば第3楽章のアインガンク(独奏者の技見せ)。それほど技巧的ではない部分だが、その分、声部の扱い方や音色に気を使う。ハ短調という調性にふさわしい、深みのある楽節を実現した。
 演奏を終え、拍手に答えるブレンデル。ラトルと抱き合う。コンサートマスターの安永と言葉を交わす。ステージに、そればかりかフィルハーモニー全体に感傷が渦巻いている。そこで気がついた。ブレンデルは本年12月で演奏生活を終える。この日は、ラトル、ベルリンフィルフィルハーモニー、そしてベルリンの聴衆とのお別れ(ないしそれに近い)公演なのだ。
 ブレンデルに欠けているように感じていたものが、このような形で現れるとは思っていなかった。当夜の演奏はブレンデルにしてみれば普段どおりだったのかもしれないし、情念を感じたのも「お別れ公演」という空気の中で聴いたのが原因なのかもしれない。しかし、それを含めての演奏会体験であることを思えば、「晩年のブレンデル」ウォッチャーとしては納得のいく締めくくりになったといえる。


 ちなみに、当夜のプログラムは以下のとおり。ハイドン交響曲第92番ト長調「オックスフォード」>Hob.I:92、モーツァルト<クラヴィア協奏曲第24番ハ短調>K491、ブラームス交響曲第1番ハ短調>作品68。
 ハイドンモーツァルトの曲は、管楽器にクラリネットが加わっており、それまでの管弦楽曲よりもバランスが管楽器に寄っている。ラトルは小編成(8-8-6-4-2+2管)で古楽的アプローチを試みるも、弦楽器寄りのバランスで消化不良。ブラームスではロマン派御用達の大編成オーケストラ。編成が大きくなっても乱れのない弦楽器と、パワフルで正確な管楽器が手を組めば、鬼に金棒だ。第4楽章、トロンボーンによるコラール楽句からの畳み掛けは、重戦車と言うよりはジャンボジェット。なりは大きく立派ながら、空を舞う軽やかさもあった。
 今月はベルリン・フィルの日本公演があり、ハイドンブラームスの同曲も演奏される。これは買いのプログラム。ご興味がある方はぜひ!詳細はこちら http://www.fujitv.co.jp/events/classics/berlin/index.html


写真:Alfred Brendel(C)Decca/Eamon McCable