「粗にして野だが卑ではない」のは国鉄総裁だけではない


 隣家が普請をしている。大工が釘を打つ槌音が朝から響くが、これといって苦にならない。というのも、我が家の家業は代々家具職(わたくしは売文業に堕したが)。金槌の音には人一倍、耐性があるわけだ。
 それで、大工と家具屋の金槌の音はかなりちがう。大工の金槌は大胆で荒々しく、いかにも大きなものを構築している様子がうかがえる。一方、家具屋の金槌はもっと繊細で、細部にまで神経の行き届いた仕事を思わせる。
 家具屋のセガレが大工の仕事にケチをつけたい、というのではない。とどのつまり、対象の大きさがまるで違うのだ。家具と家屋、対象の違いがそのまま、音の違いとなって表れている。小数点以下の狂いが致命的な家具と、大きな構造で雨風をしのぐ家屋。両者を作り上げる際の金槌の用い方に、違いがないほうがおかしな話だ。
 家具屋の仕事は繊細で、工芸に近い。大工の仕事は大胆で、ときに荒々しい。しかし、大工のそれは目的に適っているのであって下品なのではない。「粗にして野だが卑ではない」のだ。
 演奏もそうだ。CDから流れる演奏とその場の演奏とは自ずと違ってくる。ライブ感とか一期一会とか、分かったような分からないようなことを言いたいのではない。録音とライブ演奏、両者の目的が違うのだと言いたい。何度も聴かれる事を前提に、細部までこだわり抜いて作り上げる録音と、500人なら500人の聴衆を巻き込みつつ、その場の時間と空間を彫琢するライブ演奏。両者の差異がそのままサウンドの性格を決定づける。
 録音に慣れた耳には、CDと同じ奏者・同じ演目のライブが、荒々しくキズだらけに聴こえることがあるかもしれない。しかしそれは、録音との目的の違いが表れているに過ぎない。粗にして野だが卑ではない。ライブとはそういうものだ。


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[いくつかの注意喚起!]
(1)当方は「ライブ至上主義者」ではありません。(2)「売文業に堕した」と述べていますが、売文業をそこそこ気に入っています。(3)当方が家具屋の七代目を継がない点を残念がる方がまれにおりますが、当事者たちはあまり気にしていません。(4)小学生の頃、どの家も子供部屋の家具はすべて父親が作るものだと、当たり前のように思っていました。


写真:ニュルンベルク・ゲルマン博物館に再現された18世紀の楽器工房