第1回


 バッハと日本のつきあいは意外に古く、すでに140年ほどの歴史を刻んでいます。そのせいか日本はいまや、バッハ研究・バッハ演奏の両面で多くの人材を供給する「一大産地」となりました。小林義武、樋口隆一、三宅幸夫、富田庸、礒山雅らバッハ学者、鈴木雅明バッハ・コレギウム・ジャパンを代表選手とする多くのアーティスト(敬称略)を産んでいます。とはいえ、日本が突然バッハびいきになったわけでは、もちろんないでしょう。ここで日本とバッハの一世紀半を復習してみます。
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 日本とバッハとの関係を考える際に重要な点は、その黎明期がドイツにおけるバッハ復興期と重なり合っているということ。資料がないため、日本人とバッハの最初の接触の詳細を特定することはできません。しかし数々の状況証拠と最初期の記録などから、その黎明期をいくらか再構成することは可能です。
 ここでドイツにおけるバッハ復興期を簡単に振り返りましょう。現代の我々にも大きな恩恵をもたらしてくれたこの運動には、いくつか指標となる年があります。まずは1829年。ベルリンでメンデルスゾーンが<マタイ受難曲>を蘇演。19世紀の初めにフォルケルが『バッハ伝』を出版してから盛り上がりを見せていたバッハ復活の機運は、この蘇演で決定的となりました。
 第2に1850年。バッハ没後100周年のこの年、ライプツィヒで旧バッハ協会が発足します。永年にわたりこの協会の必要性を提唱してきたのがロベルト・シューマン。この協会の主たる目的は、『旧バッハ全集』の刊行でした。こうして西洋音楽史上、極めて重要な事業が開始されたのです。
 1873年には、初期「バッハ学」の金字塔として名高いシュピッタの『J.S.Bach』が出版されました。7年後の1880年、第2巻が発行され、この著作は完結。これにより「バッハ復興」は学問上でも堅固なものとなったと言えましょう。この翌年、シュピッタと深い親交のあったブラームスが『旧バッハ全集』の編集に参加し始めました。この『旧バッハ全集』も1899年に完成し、旧バッハ協会は解体されました。
 翌年、演奏によってバッハの音楽の普及を図る目的で新バッハ協会が創立。そして1904年、第1回目のバッハ祭が開催されました。こうして19世紀に始まるバッハ復興運動は、20世紀に入り新たな局面を迎えることとなりました。