青柳いづみ子『高橋悠治という怪物』

青柳いづみ子『高橋悠治という怪物』河出書房新社, 2018年

 作曲家でピアニストでもある高橋悠治の音楽家像を、ピアニストで文筆家の青柳いづみ子が描き出す。高橋悠治は1938年生まれ。60年代から作曲と演奏とに携わる。ときに社会状況を乱反射させながらその活動を続け、傘寿を迎えた今も独自の存在感で第一線に立つ。
 『高橋悠治という怪物』なるタイトルが、二重の意味でふるっている。そのキャリアの初めから高橋には、さまざまな伝説がまとわりついてきた。ピアノの超絶技巧、楽譜の初見演奏、7ヶ国語を操る語学力、ステージでの様子、作曲・演奏・著述を通した政治参加。少しずつ過剰なそれらの話によって高橋は、着膨れした怪物に仕立て上げられた。関係者の思い出は大袈裟なほうに引きずられがちだし、本人の記憶はあやふやなことも多い。
 著者はみずからの観察や他者の証言、資料の確認などを通して、伝説をひとつひとつ検証する。不要に重ね着させられた高橋の衣装を一枚一枚、剥ぎ取るように。その結果、これまでの伝説は後景に退き、高橋の実像と思しき姿が徐々に見えてくる。タイトルは『……怪物』ながら、その怪物性を引き剥がすのが、この書物の趣深いところだ。
 より面白い点はその先にある。怪物性を引き剥がした結果、そこに現れる高橋の実像と思しき姿も、別の怪物のようにしか見えない。たとえば、これがバッハならばどうか。謹厳実直な宗教音楽家のイメージを、20世紀後半の研究が修正した。バッハは俗人めいたところも多分にある“ふつうの人”だった。ところが高橋は、むいてもむいても怪物なのだ。この本のタイトルは、一周回って高橋の実像を捉えていることになる。
 こうした実像を探る著者の手さばきは堅実だ。とりわけ技術論に説得力がある。演奏家演奏家を評することの利点が表れている。直接、知り合ったのは最近で、演奏スタイルもレパートリーも違うが、共演経験はある。両者のこの絶妙な距離感が、この書に格別の力を与えている。



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