嘉永6年(1853年)江戸本所の歌沢連

〔架空の対話〕
笹本彦太郎 「平虎や、今日もお前さんの美声を聴かせておくれ」
平田虎右衛門「ご隠居は本当に端唄が好きでらっしゃいますね。それではひとふし……」
柴田金吉  「みどもはもう少し重々しく歌うほうが好みでござるな」
萩原乙彦  「それももっともだ。ご隠居、ここは少し歌い方を工夫するのはいかがか」
笹本彦太郎 「よかろう。平虎や、もう少しゆっくり、低い声で歌ってごらん」
平田虎右衛門「へい、そうしやしょう」
柴田金吉  「おお、今度はずいぶんと具合がよい」
萩原乙彦  「うむ。さすればこれを”うた沢”と呼び、お江戸に流行らせるのが一興かと」
笹本彦太郎 「面白いことを言うねえ。よし、乗った!」

〔人物〕
笹本彦太郎(1797-1857)
うた沢の創始者、初代家元「歌沢笹丸」。もともとは江戸本所に住む旗本で、若いころから音曲に入れ込んだ。自分で歌うことはなく、美声と評判だった平田虎右衛門や柴田金吉を自邸に招いては、端唄を楽しんだ。この集まりがのちに「歌沢連」となり、そこから「うた沢」なる新しい歌い方が生まれてきた。


親しみやすい母親、上品な姉とおきゃんな妹

 「音楽サロン」は”19世紀のパリ”にだけ存在したわけではない。どんな時代のどんな国や地域にも「音楽サロン」は根を下ろしていた。もちろんそこには江戸時代の日本も入っている。サロンミュージックを日本語に訳せば「御座敷の音曲」といったところか。江戸期の御座敷の音曲といえば、端唄、うた沢、小唄が代表選手だ。どれも三味線をお供に流行り歌を歌うもので、江戸の庶民に愛された。
 18世紀の終わりごろからもてはやされたのは端唄。大工や火消し、ご家人といった街の人々が愛好した。だから凝り過ぎず自然。歌いやすい音域、演奏しやすいリズムで、歌も三味線も同じように活躍する。ちょっとした集まりで披露するのにちょうど良い間尺。あまりに流行したので、多くの人が師匠の元に通い、それぞれの師のところで「端唄連」なる集いを結成した。
 端唄の流行のピークは19世紀の中ごろ。そのころになると、それまでの端唄に飽き足らない人々が、新しい歌い方を模索するようになる。そんな新しい歌が「端唄連」のひとつ「歌沢連」から生まれた。歌沢連は江戸人形町の女師匠・さわの元に通う愛好家たちの集まり。旗本の隠居・笹本彦太郎を中心に、畳屋の平田虎右衛門、ご家人の柴田金吉、戯作者の萩原乙彦が、自慢ののどや三味線を披露した。嘉永6(1853)年、うた沢はそこから生まれた。笹本たちが目指したのは、厚みがあって堂々とした歌い方。音域は低く、テンポはゆったり、リズムも端唄より複雑で、歌うというより語るのに近い。歌と三味線をくらべると歌のほうに比重がかかる。
 うた沢に少し遅れて登場したのが「小唄」。この小唄も端唄の表現に新たな工夫を加えたものだ。創始者は清元お葉。彼女は16歳の安政2(1855)年に「散るは浮き」という曲を作り、新しい歌い方を披露し始める。お葉は名前の通り「清元節」の家の出身。清元節とは歌舞伎の音楽のひとつで、派手で軽やかな音、甲高く鼻をくすぐる裏声を特徴としている。小唄もそんな清元節の特徴を受け継ぎ、軽快で高音重視。うた沢とは反対に三味線が歌をリードする。テンポが速くリズムが簡素なのも、うた沢とは対照的だ。
 試みに同じ曲の演奏時間を三者で比較した結果を挙げておこう。「めぐる日」という演目をそれぞれの歌い方で演奏すると、時間がかなりまちまちになる。端唄2分55秒、うた沢3分34秒、小唄2分ちょうど。端唄を間に挟み、うた沢と小唄とでは演奏時間にずいぶん開きがある。こんなところにも三者の違いがよく出ている。
 こんな3つの「歌い方」をうまく表現した言葉がある。「端唄は母、うた沢はおっとりと上品な姉娘、小唄は粋でおきゃんな末娘」。なるほど、生まれてきた経緯、それぞれの音楽の特徴をしっかりと捉えている。
 江戸の「サロン」ではこんな音楽が楽しまれていた。そしてこの「御座敷の音曲」は今もしっかりと生き残っている。わりと近くに愛好者がいるかもしれないし、聴きにいくこともできる。ひとふし聴いてみるのも体験としては悪くない。


【CD・本】
本條秀太郎「端唄 江戸室内歌曲」
倉田喜弘編『江戸端唄集』岩波文庫, 2014年



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