水谷彰良『サリエーリ』(新版)

水谷彰良『サリエーリ 生涯と作品 モーツァルトに消された宮廷楽長』(新版), 復刊ドットコム, 2019年1月

 吉良上野介はわれわれが思うほど悪辣ではなかったという。芝居の敵役として描かれる姿は大げさなようだ。吉良上野介本人と『仮名手本忠臣蔵』の高師直(吉良役)とは、人物像の点で必ずしも一致するわけではない。
 西洋音楽史にもそんな人物がいる。アントニオ・サリエリ、その人である。18世紀の終わりから19世紀の初めにかけて活躍したイタリア人作曲家で、ウィーンの宮廷楽長にまで上り詰めた。しかしその晩年、モーツァルト毒殺の嫌疑をかけられる。後世の戯曲や映画が、そのたちの悪い噂を世に広めた。
 この本は2004年刊行書の復刊。問題含みのサリエリの生涯を、彼の音楽作品に寄り添いながら描き出す。全体は年代記7章に、現代のサリエリ演奏と研究に関する補章を加えた8章立て。全作品目録や年譜なども付く。作曲家の事績を手紙や証言から再構成し、そこから作品紹介へ。さらに作品受容の様子を探り、社会史にも目配せをする。おおむねこのスタイルで各年代のサリエリ像を彫り出す。
 読み手は砂を噛むような読書を強いられる。ただ、その砂がじつに味わい深い。砂を噛むような、というのはこの書が、史料の語るところを連ねるため。データ集の趣きが強い。味わい深い、というのは史料がときおり、サリエリの人となりを色濃く反映するため。たとえば、ウィーン・グラーベン通りのレモネード屋で、弟子たち(そこにはシューベルトが含まれる)にアイスクリームをごちそうしたり。
 サリエリ伝にとって、モーツァルトとの関係は避けて通れない話題ではある。毒殺説を正面からきれいに否定するのは難しい。だが、無実を裏面から照射する証拠には事欠かない。スヴィーテン男爵主宰の日曜演奏会で、モーツァルトのピアノ伴奏のもと、サリエリらウィーンの音楽家たちがバッハやヘンデルの歌を楽しげに歌う。この書物には当時の音楽文化のネットワークを知るのに有用な話題が、豊富に盛り込まれている。


初出:モーストリークラシック 2019年5月号



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