第九の編曲、そのさまざまな姿

 ウィーン・オペラ座の正面玄関を出て、建物の西側の通り、オーパーンガッセをのんびりと6、7分、歩いて南下する。左手にカフェ・ムゼウムを見ながら進むと、やがて「金色のキャベツ」のような円蓋を戴いた白亜の建物が目に入る。分離派会館(ゼツェッシオン)だ。
 クリムトの大作「ベートーヴェンフリーズ」は、この分離派会館の地下に保存されている。クリムトは1901年にこの壁画を制作し、翌02年、第14回分離派展に出品した。この年の分離派展のテーマは「ベートーヴェン」。クリムトは作曲家の最後の交響曲「第九」の第4楽章を主題に、壁画を描き上げた。
 一方、クリムトと親交のあったマーラーは、「第九」終楽章の「ひれ伏すのか、諸々の民よ」以下を素材に、6つのトロンボーンのための作品を編み、この展覧会の内覧会で披露した。こうしてクリムトの絵画による「第九」の“編曲”と、マーラー金管楽器による編曲とが、来場者の目と耳を同時に楽しませた。
 マーラーの編曲にはさまざまな含みがある。ベートーヴェンへの敬意、「第九」の再解釈、場にふさわしい規模への再編成。現実的な側面に注目すれば、3つめの再編成はとても重要だ。床面積が狭く天井の高い空間で、充分な響きを得る必要がある。長大な作品をすべて演奏するわけにもいかない。こうした条件が、少ない楽器で豊かに響く金管アンサンブルの「第九」パッチワークを生み出した。
 こうした楽器編成の移し替え、とくにその縮小を主眼とする編曲を、音楽家たちは長らくおこなってきた。管弦楽などを必要とする作品を、家庭で聴けるようにする点でこの編曲は、現代の音楽ソフトと同じ役目を果たしている。
 「第九」も大規模な作品なので、つねにこうした“縮小”編曲の対象となった。とりわけピアノ1台ないし2台への移し替えが多い。19世紀、ピアノは市民階級にも徐々に普及し、まさに家庭の楽器としてその地位を固めつつあった。大規模作品のピアノ編曲は、楽器の歩みと軌を一つにする。教会や劇場などの空間を、家庭の居間の大きさに縮め、管弦楽団や合唱団を、ピアノの中に閉じ込める。「第九」はいまや、自宅の安楽椅子に腰掛けて聴く音楽となった。
 リストの編曲(ピアノ1台版、ピアノ2台版)が有名だが、それ以前にも多くの“縮小”「第九」が存在する。初演から5年経った1829年ベートーヴェンの弟子チェルニーが連弾版を出版。シューマン1830年代初めに、第1楽章の途中までをピアノ用に編曲した。同じころワーグナーも、交響曲の学習を兼ねてピアノ独奏版を編む。
 1838年には、ベートーヴェンと並び称された鍵盤演奏の巨匠フンメルがピアノ四重奏版を刊行、ベートーヴェンらの後輩世代に当たるカルクブレンナーがピアノ独奏版を出版した。その20年後、1858年になってやっと、リストの2台ピアノ版が登場することとなる。
 “縮小”編曲の多くがアマチュアリズムと楽譜出版産業とに密接に関わっていた一方で、“拡大”編曲はもっぱら職業音楽家の演奏の現場で生まれた。先述のマーラーは この“拡大”編曲にも手を染めた。
 19世紀末から20世紀初めにかけてマーラーは、大陸ヨーロッパとアメリ東海岸とで、ベートーヴェン「第九」をさかんに指揮した。その中でマーラーがつねに心がけたのは、1820年代に書かれた「第九」を、1900年前後のオーケストラの機能に合わせて改変し、そのフォーマット上で「第九」に本領を発揮させる、ということ。この思想が正しいか否かはひとまずおき、結果としてマーラーが何をしたのかに着目したい。
 第一に編成の拡大。オリジナルは二管編成、つまり木管楽器奏者を各パート2人ずつ擁する規模だが、マーラーはその二管を倍増させた。またティンパニを2人にし、原曲にないテューバも加える。1895年のハンブルク公演では、バンダ(別働楽隊)まで使ったという。
 つぎに響きの拡大。編成が大きくなったので音量は当然、大きくなる。加えてマーラーは、弦楽5部のひとつひとつのパートをさらに分割して声部の数を増やし、内声を充実させることで響きに厚みを持たせた。
 そしてテクスチュアの拡大。副次的な旋律を新たに加えたり、楽器の組み合わせを変えて音色を変化させたりする。弦楽器の弓づかいを細かく指示することで、当世好みの息の長いフレージングを実現することも忘れない。
 こうした改変は編曲と言えるのか。マーラーはみずからの「第九」を実現するために、演奏(調理のスタイル)だけでなく、楽譜(レシピの中身)そのものを変えた。ここまでの手の込んだ作業を編曲と呼ばないほうが、むしろ不自然だろう。
 程度の差こそあれ「第九」は、こうした“編曲”の波に洗われてきた。マーラーより時間をさかのぼること半世紀、1846年にワーグナーは、ドレスデン「第九」の公演を指揮した。この公演に際してワーグナーは楽譜を改訂。みずから筆をとってプログラムノートを書き、改訂の特徴を述べている。基本的な考えはマーラーと同じ。ベートーヴェン当時の楽器や奏法を発展途上のものとし、よりよく進化した現代(ワーグナーの当時)の楽器と奏法、それに基づく語法を採用すべきとした。
 こうした信念はその後も綿々と受け継がれたる。たとえば、ワインガルトナー、メンゲルベルクトスカニーニといった20世紀前半の指揮者は、金管楽器の重複やティンパニの追加、音高の異動など、ワーグナーマーラーらの“編曲”をそれぞれの仕方で利用した。
 「第九」編曲の歴史は、そこにさまざまな目的や手段を輻輳させながら、折々に多様な姿を示してきた。その点に作品の懐の深さが表われているのはもちろんだが、むしろ音楽家や聴衆の、ある種の欲深さを反映していると見るほうがよいのかもしれない。そうした欲深さこそ、アートの沃野を耕す原動力なのだから。


【CD】

リスト 2台ピアノ版
ワーグナー ピアノ独奏版
マーラー 管弦楽版


初出:モーストリー・クラシック 2019年1月号


 
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