音楽家の連帯 ― ブラームスの場合

 音楽家たちは古来、さかんに相互交流を重ねてきた。特殊技能を持つ者同士の緩やかなギルド、職位を独占するための同族組合、互いを触発する音楽家同士の連帯。たとえば、テレマンとバッハには家族ぐるみの付き合いがあった。バッハは中部ドイツを根城とする音楽家一家出身。バッハ家は地域の演奏家ポストの一部を一族で独占していた。あるときドレスデンの名リュート奏者、ヴァイスとクロップフガンスの演奏に魅了されたことでバッハは、「リュート組曲」などを新たに生み出していく。このように19世紀以前のミュージシャンたちは、通信手段が限られる分、今の音楽家よりもずっと密に関係を構築していた。ブラームスの楽界交友も、そういった密度と厚みとを持っていた。
 若きブラームスは自作自演の演奏会を地道に積み重ねていた。たとえば1849年4月のリサイタル。ハンブルクの新聞批評子は「ベートーヴェンの演奏に勉強の成果」を、「自作の演奏に並々ならぬ才能」を見た。とはいえ、こうした演奏会はマイナーな活動に属する。そんなブラームスを一段高いステージへと引き上げたのが、エドゥアルト・レメーニだった。レメーニはハンガリー出身のヴァイオリニストで、19世紀を代表する音楽家のひとり。1886(明治19)年に早くも訪日。長崎、神戸、横浜の各居留地で公演をしたほか、東京では宮中と鹿鳴館とで御前演奏を行った。当時としては図抜けて世界的な奏者だ。
 1853年、ブラームスはレメーニの伴奏者となり演奏旅行に随行。ヴィンゼン、ツェレ、リューネブルクといった北ドイツの各地で、当代一のヴァイオリニストともに舞台に立った。そこでは自作を披露する機会も与えられ、イ短調の「ヴァイオリン・ソナタ」(現存せず)や「ピアノ・ソナタ第2番」作品2、「スケルツォ」作品4などを演奏したという。
 レメーニはブラームスに、メジャー級の舞台を経験させるだけでなく、メジャー級の音楽仲間を引き合わせてくれた。ヨーゼフ・ヨアヒムだ。ヨアヒムはハンガリーのヴァイオリニストで、レメーニとは同郷・同世代。ヴィルトゥオーゾとして名声を博していた。以後、ヨアヒムの演奏家としての助言は、作曲家・ブラームスを育てる大きな力となっていく。
 ブラームスがその声望を確かなものとしたのは、「ドイツ・レクイエム」の成功によるところが大きい。その全曲初演を担った指揮者が、カール・ライネッケだ。1869年2月18日、ライプツィヒ・ゲヴァントハウスでこの作品の全容が明らかになった。ライネッケはメンデルスゾーンシューマンのよき解釈者で、当時、ゲヴァントハウスの楽長を務めていた。いうまでもないが作品の評判は、演奏のよしあしに左右される。ライネッケの優れた“実体化”によって「ドイツ・レクイエム」は、聴き手の心を動かした。その波動がドイツ語圏全体に広がり、ブラームスの作曲家としての立場を強めていく。
 その意味でハンス・リヒターとの出会いも、ブラームスにとって大きな意味があったはずだ。ブラームスは1876年、構想から20年を経てやっと「交響曲第1番」の初演にこぎつけた。ベートーヴェンの幻影、シューマンの期待、同時代作曲家たちの交響曲創作が、彼にプレッシャーを与え続けた。そこから解放され、ブラームスは晴れ晴れとした気持ちでオーストリアの保養地ペルチャッハに向かう。そしてそこで「交響曲第2番」を書き上げた。逡巡に逡巡を重ねた第1番とは違い、いわばペルチャッハに飛び交う音をそのまま書き留めるかのように筆を進めた。
 そうした第2番の雰囲気を、そのまま大らかに表現したのが、初演の指揮者ハンス・リヒターだ。1877年12月30日、リヒターの指揮するウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によってこの作品は、世に送り出された。演奏会は大成功。厳しい批評で有名なハンスリックも「よい音楽を聴きたがっている、すべての人のために書かれた作品」と絶賛した。作曲家と演奏家との、作品を通した響き合いが、幸せな音を奏でた好例だ。ちなみにリヒターとウィーン・フィルは、ブラームスの「交響曲第3番」も初演している。
 指揮者でもうひとり名前をあげたいのが、ハンス・フォン・ビューロー。リストとワーグナーの音楽のいちばんの支持者だった。ブラームスがビューローと初めて会ったのはまさに、この指揮者がリスト=ワーグナー派の頭目であった1854年のことだ。1880年代になるとビューローは、さかんにブラームスの作品を取り上げるようになる。中部ドイツ・マイニンゲンの宮廷楽長として楽団を鍛え上げ、その活動の中で多くのブラームス作品を演奏した。
 もっとも注目すべき成果は、1882年のベルリン演奏旅行だ。ビューロー率いるマイニンゲン宮廷楽団が、帝都に赴き演奏を披露した。その中には二夜にわたる「ブラームスの夕べ」が含まれる。第1夜はビューローが指揮をしブラームスが「ピアノ協奏曲第2番」を独奏。第2夜はブラームスが指揮台に上がりビューローが「ピアノ協奏曲第1番」を弾いた。これらの演奏会は大成功を収めた。
 クラリネット奏者のミュールフェルトなど、ブラームスに創作のひらめきを与えた演奏家は少なくない。それは器楽に限ったことではなく、歌い手にも彼の創造性を刺激する者がいた。ブラームスは1856年、バリトンのユリウス・シュトックハウゼンと出会った。ふたりはバッハに対する関心などを共有したのかもしれない。すぐに打ち解けた音楽家たちは以後、歌手とピアニストとして共演を重ねていく。作曲家はシュトックハウゼンのために作品も書いた。「マゲローネのロマンス」作品33 だ。それは「われても末に逢はむとぞ思ふ」を地でいく恋愛譚。さまざまな障害があっても、思い合う者の間には強い紐帯があることを示す内容は、友情の証にふさわしいものだった。


【CD】
ピアノのための「スケルツォ」ほか
ドイツ・レクイエム
交響曲第2番
ピアノ協奏曲第1番・第2番ほか
歌曲集「マゲローネのロマンス」


初出:モーストリー・クラシック 2018年5月号






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