《怒りの日》の"古典物理学"

 店内に流れる《蛍の光》で閉店時間に気づくという経験を持つ読者も多かろう。音楽が記号として働く典型的な例。同じように《怒りの日 Dies irae》の旋律も、キリスト教文化圏に生きる人々にとってはひとつの、しかしとても重要な記号と言える。
 修道士トマス・ア・チェラノが詩を書いたとされる《怒りの日》は、カトリック教会の聖歌。作曲者は不明だが、作詞作曲ともに13世紀後半と考えられている。劇的な内容により人気を得て、まもなく各地の「死者のためのミサ(レクイエム)」で用いられるようになった。
 《怒りの日》はセクエンツィア(続唱)のひとつ。セクエンツィアとは聖書の詩句ではなく、自由詩に基づく聖歌で、中世末期に盛んに創作された。柔軟な発想の詩は人々の心をつかんだものの、聖書上の根拠は薄い。その結果、16世紀のトレント公会議で4つを残してほぼ全面的に禁止された。《怒りの日》はこの生き残った4つの一角を占める。なお、20世紀後半の第2ヴァチカン公会議によって、《怒りの日》を含むすべてのセクエンツィアをミサで唱えることが禁じられた。ただし、2000年に出版された祈祷書では、教会暦の最後の1週間に日々の勤めの中で歌うことが認められている。
 冒頭の「怒りの日、その日こそ Dies irae, dies illa」なる詞章は、旧約聖書ゼファニア書第1章第15節からの引用。全体は最後の審判の様子を映す内容で、地獄で業火に焼かれることなく、天国でキリストの元に集いたいと唱える。そこに付けられた音楽は、西洋音楽史上、最高の旋律のひとつと言っても過言ではない。

 はじめの旋律を取り上げてその造りを確認したい。「ファ ミ ファ レ ミ ド レ レ」はジグザグに進むメロディー。よく目を凝らすと単旋律に隠れた2つの声部、A「ファファミレ」(奇数番目の音)とB「ミレドレ」(偶数番目の音)とが浮き上がってくる。Aは高い位置に留まっていたい、Bは低いところに降りて行きたい、その両者の力が「レ」で釣り合うという綱引きがある。これは、地獄に落ちるほかない人間を、キリストが救い出していることを象徴しているようにも見える。この力動性によって《怒りの日》の旋律は、名作としての地位を確固たるものにした。
 旋律そのものの力、詩の内容を縁取る描写力、根強い伝承によってこのメロディーは、キリスト教文化圏の中で発信力の強いシンボルとして働いてきた。簡素なこの旋律が鳴り響くと人々は、即座に最後の審判、地獄の業火を思い浮かべるようになる。こうした象徴性を多くの音楽家が利用した。ベルリオーズの「幻想交響曲」、リストの「死の舞踏」、サン=サーンスの「交響曲第3番」、ラフマニノフの「死の島」、ダッラピッコラの「囚われ人の歌」、クラムの「ブラック・エンジェルズ」など、多くの作曲家が死のイメージを喚起するのに、この旋律を用いている。


初出:モーストリー・クラシック 2017年2月号


【CD】
ベルリオーズ《幻想交響曲》インマゼール指揮, アニマエテルナ管弦楽団
サン=サーンス《交響曲第3番》ミュンシュ指揮, ボストン交響楽団
ラフマニノフ《死の島》プレヴィン指揮, ロンドン交響楽団
ダッラピッコラ《囚われ人の歌》スウェーデン放送交響楽団
クラム《ブラック・エンジェルズ》ブロドスキー弦楽四重奏団





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