バッハ《ヨハネ受難曲》― ピラトをめぐる3つの層

 《ヨハネ受難曲》をより深く理解するためには、「ピラトをめぐる3つの層」の問題に迫らなければならない。
 《ヨハネ受難曲》はその名の通り『新約聖書』の「ヨハネによる福音書」に題材を取っている。この受難曲の中心となるメッセージを伝えるためにバッハは、巧みな方法を使った。それは「調を大幅に変えながら場面を劇的に描き、重要なコラールやアリアをその場面の最終局面に置く」ということ。
 こうした手法が集中的に使われているのが「ピラトの審問」から「判決」にかけての場面だ。ポンテオ・ピラトは当時、ローマの属州だったユダヤを治めていた総督で、イエスを十字架刑に処した張本人。《ヨハネ受難曲》には「イエスに罪はないのではないか?」「この男は本当に神の子なのではないか?」と戸惑うピラトの様子が描かれている。
 こうしたピラト像には実は、3つの層が折り重なっている。1つ目は歴史的事実の層。ある時期のイスラエルに、イエスを十字架刑に処したローマ総督ピラトなる人物がいた、ということをニュートラルに示す。4つの福音書の中でもっとも古い「マルコによる福音書」に描かれるのが、こうしたピラト像だ。
 2つ目はドグマ化の層。初期キリスト教会がユダヤ教とは異なる宗教として生き残るためには、キリスト教としての教義を整える必要があった。ピラトに関して言えば、ニュートラルなピラト像から迷うピラト像へと転換が図られる。「ルカ」と「ヨハネ」の両福音書は「マルコによる福音書」を底本とするか、少なくともその内容を踏まえた上で書かれている。ピラトに関しては、古層を示す「マルコ」にはない記述が「ルカ」「ヨハネ」の両福音書に見られる。それは、ピラトがイエスの審問に際して何度も「私は彼に罪を見いださない」と言明していること。そして何度かイエスを釈放しようと試みていること。一方で、イエスを告発するユダヤ人の「声」は強化されている。ここには、イエス磔刑の原因を「ピラトの判決」から「ユダヤ人の告発」のほうへシフトさせようとする意図が見て取れる。反ユダヤ主義の芽生えだ。
 3つ目は18世紀ドイツの層。《ヨハネ受難曲》の「ピラトの審問」の場面は、反ユダヤ主義的な傾向を持つ「ヨハネによる福音書」の章句がそのまま使われている。バッハは、ピラトがイエスを処刑するか否か迷う様子や、イエスを釈放しようと思いを巡らす様子を、調を大幅に変えながら劇的に描く。一方で、かたくなにイエスを十字架に付けようとするユダヤの民の姿を、騒ぎ立てるような対位法を使って表現する。章句に音楽がつくことで、ピラトとユダヤ人との対比が鮮明になる。「ともすればイエスをキリストとして受けれいてしまいそうになる異邦人ピラト」と「ひたすら悪辣にイエスを殺そうとするユダヤの民」。この対比は反ユダヤ主義を増幅させると同時に、異邦人に救いの道が拓かれていることを強調する。
 当時ドイツでは、受難週に聖職者が聖書の中のユダヤ人を非難する説教を行うと、それに呼応した信者がユダヤ人の居住区に放火することもあった。マルティン・ルターでさえその晩年、ユダヤ人を嘲笑する長い論文を書いている。反ユダヤ主義は教会の中に脈々と流れていたのだ。一方、異邦人宣教の理想は大いに語られる。それもそのはずで、異邦人のなかにはドイツ人も当然、含まれるからだ。自分たち異邦人の救いを強調するためには、異邦人ピラトの良心が示されなければならない。
 「ピラトの審問」や「判決」は、それぞれの場面の終着点に位置する重要なコラールやアリアへの序奏 / 助走として劇的に描かれるのだが、そこには幾重にも重なる歴史の層、伏流する人々の意識までもが見え隠れしている。
 教会音楽は難しい。演奏の側面だけとっても微に入り細を穿つアプローチが必要になる。詩の読み込みは欠かせないし、その土台となる神学的知識を得るには苦労も多い。その上、そこに思想潮流までも加味するとなると、その労力は計り知れない。それを乗り越えた上で、音楽的にも成果をあげる演奏家がいることを幸いと思いたい。






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