生誕450年 モンテヴェルディ 音楽の歩み

同時代のふたり ― 光悦とモンテヴェルディ

 本阿弥光悦は16世紀から17世紀にかけて活躍した書家。1615年に徳川家康から京都鷹ヶ峰の土地を下賜され、そこに芸術家村を作り隠棲した。光悦は、長次郎が千利休の指導によって始めた楽焼を、楽家二代目の常慶から教わり、鷹ヶ峰で茶碗を焼き始める。利休以来の侘び数寄の理想を踏まえながら制作に励むが、そのこと自体は引退後の手遊びに過ぎない。しかし光悦は、侘び数寄のつぼを押さえつつもそれに縛られることなく、手遊びであるがゆえの自由さを持って、一碗一碗に創意工夫を尽くしていく。伝統とそこからの距離、自由さと創意工夫の交わる一点に、光悦の仕事は花開いた。
 同じころイタリアでは、クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)が音楽の世界で、その創作の力を発揮していた。場所も分野も隔たってはいるが、この同時代の二人は意外にも、よく似た姿勢で仕事に取り組んでいる。モンテヴェルディは16世紀の音楽家たちが積み重ねたスタイルをよく消化しつつも、新しい芸術思潮を現実化するためならば、既存の音楽の形を改変することに躊躇を覚えなかった。だからといって、新しさの持つ勢いだけで作曲をしたわけではない。その仕事は微に入り細を穿つ入念さで行われた。その繊細な手入れの深さゆえ、音楽史におけるインパクトはとても大きくなった。本阿弥光悦モンテヴェルディは、こうした芸術上の姿勢の点で、同じ道を歩んでいる。
 モンテヴェルディは(光悦もまた)「発明・発見」の人ではない。しかし、そこに存在する物事を新しい思潮に従って改変し、使い勝手を調える「応用」には大きな才能を示した。その仕事は「発明・発見」に価値を置く"ノーベル賞"に輝くことはないが、世界を大きく変える力には満ちていた。


「応用」の舞台 ―《マドリガーレ集》

 モンテヴェルディの「応用」のおもな舞台は3つある。ひとつは世俗的内容の室内声楽曲・マドリガーレ、ひとつは芝居を伴う大規模な声楽曲オペラ、もうひとつはキリスト教典礼のための各種声楽曲だ。モンテヴェルディはこれらの舞台で、新しい芸術思潮の現実化のために作曲の筆をとった。彼が依拠した芸術思潮は、「言葉が音楽の主人になる」という彼自身のひとことに現れている。詩に表現された情緒を、音楽でいかに表現するか。これは古来、重要な課題だが、この課題に取り組むにあたりモンテヴェルディは、詩の情緒(言葉)をより克明に表すためであれば、楽曲のかたち(音楽)が旧来の規則に背いてもよいと考えた。「言葉が音楽の主人になる」というのはそのような意味だ。
 「旧来の規則」というのは端的に言えば、対位法のことであり、それに「背く」というのはつまり、不協和音を対位法の規則から逸脱して使う、ということを意味する。このような視点のもと音楽を徹頭徹尾、言葉に従わせた結果、モンテヴェルディは音楽に実に豊かな表現力を付与することに成功する。それが逆説的に、言葉からの音楽の自律を促し、のちの器楽の隆盛にも一役買うことになった。
 モンテヴェルディの世俗声楽曲を代表する作品群は、《マドリガーレ集》全8巻の中に見ることができる(他に死後に出版された第9巻も存在する)。16世紀のマドリガーレは、文芸性の高い詩を多声で表現したもの。この全8巻におけるモンテヴェルディ個人の歩みがそのまま、よりダイナミックな音楽史の運びと軌を一にしている。
 第1巻(1587年)でモンテヴェルディは、先輩世代の書法である対位法に依拠して作品を書き上げた。対位法とは複数の声部がそれぞれ独立して旋律を担い、それらが同時に鳴り響くことで不協和音と協和音、すなわち緊張局面と緩和局面とが交互に現れるスタイルのことを言う。モンテヴェルディはこの巻で先輩世代よりも多少、不協和音を大胆に扱っている。
 第2巻(1590年)では対位法の扱いがいっそう洗練され、非の打ちどころのない水準に達した。その上で、詩の情緒を音で表す術を拡大させる。たとえば「新しき夜明けはいまだ訪れず Non si levav’ancor」の冒頭、明けきらぬ太陽の様子を上行音形と下行音形とを同時に使うことで描いてみせた。また「波はささやき Ecco mormorar l’onde」では、旋律を鏡像のように配置することで、海面に映る夜明けの太陽を表現した。
 1592年の第3巻では、より今日的なスタイルが支配的となる。それはイタリアで活躍したフランドル人の作曲家ジャッケス・デ・ヴェルトの確立した様式だ。ヴェルトは言葉の可聴性を重視し、話し言葉に近い音付けを試みた。それは歌としてはぎこちない旋律線と、耳を引く不協和音とに依っている。モンテヴェルディはこの巻で、ヴェルトに輪をかけて強烈な不協和音を用いた。「どうか私の心を引き裂いてくれ Stracciami pur il core」の荒々しくひしゃげた和音は、この第3巻を代表する特徴と言ってよい。
 次の第4巻の出版は1603年。前巻から11年が過ぎている。第4巻以降の新しい試みに鑑みれば、第3巻との間にこれだけの時間が必要であったことにも納得がいく。この第4巻と2年後の第5巻とでモンテヴェルディは、不協和音の扱いにいっそうの独創性を発揮した。即興的に演奏されるものだった装飾音(不協和音を生み出す付加音形)を、楽譜にあらかじめ記したり、不協和音の前後にあるはずの協和音を省いたり。こうして不協和音の使用を拡大し、一様でない緊張感を表現しようとした。これらはいずれも、同時代の他作曲家の創意に基づいている。モンテヴェルディの卓越性は、それらを手のこんだ方法で用いた点にある。第5巻ではすべての作品に通奏低音がつけられた。声部は刈り込まれ、高音部と通奏低音声部とが対置される。
 第6巻(1614年)でいったん16世紀の5声マドリガーレの創作を振り返った上で、1619年の第7巻では17世紀を代表するスタイルを前面に押し出している。その大部分は二重唱だ。この二重唱は3つの型に分けられる。通奏低音付きのマドリガーレ(「いとしい小鳥よ、おまえはなんと優しいのだ O come sei gentile」など)、器楽の繰り返し楽節と歌とが交互に登場するアリア(「黄金の髪、美しき宝 Chiome d’oro」など)、そして低音部の定型旋律に基づく変奏曲(「おお我が恋人はどこへ行った Ohimé do’vé il mio ben?」など)だ。
 作曲家の最後の《マドリガーレ集》となったのが第8巻(一1638年)。第4巻以降の作曲を回顧する大きな曲集で、全体は「戦いの歌」と「愛の歌」とに分かれている。興味深い例は「ニンフの嘆き Lamento della ninfa」。情景を表す2つの部分が、ソプラノの哀歌を挟み込む構成をとる。哀歌は低音部の定型旋律を持っている。男声3声部がソプラノの背景をなし、自由に振舞うソプラノと、厳格に音を運ぶ男声部以下との対置が、不協和音を際立たせている。


「応用」の舞台 ―《オルフェーオ》《聖母マリアの夕べの祈り

 《マドリガーレ集》全8巻の中に見られたさまざまな工夫は他の舞台、すなわち芝居を伴うオペラや、キリスト教典礼のための各種声楽作品にも敷衍される。モンテヴェルディの現存する最初のオペラは、音楽寓話劇《オルフェーオ》(1607年)だ。この作品にはマドリガーレ、通奏低音と独唱、さまざまな器楽曲が盛り込まれている。注目すべきは器楽の扱い。編成にはトロンボーンコルネット(マウスピース付の木製円錐管楽器)、リコーダーやハープなどが含まれる。とくに通奏低音を担当する楽器が多様で、演奏者はその組み合わせを変えて、情景を描き分けることができる。こうした器楽編成を背景に、マドリガーレ集で開拓された各種の声楽スタイルが物語を彫琢していく。その表出力は「バロック時代を扉を開けた」というに相応しい。
 1610年に出版された曲集《教会の合唱による聖母マリアための6声のミサ曲と多声の晩課(聖母マリアの夕べの祈り)》には、多様なスタイルの典礼曲が含まれる。それはモンテヴェルディが、この分野にも長けていたことを示している。ここでも旧来の伝統的な書法を踏まえる姿勢と、そこから距離を置く姿勢とを並置する。旧来の書法はミサ曲に顕著。一方、新しい書法はモテットにあらわれる。《マドリガーレ集》で工夫を重ねた装飾音形が、この曲集のモテットにも顔を出す。この装飾旋律の追求によってこの曲集は、同時代の典礼音楽と一線を画している。装飾は不協和音を生む。不協和音は詩の情緒を細やかに描く。モンテヴェルディは世俗詩に向かうときと同じ姿勢で典礼文にも取り組んだ。そのおかげで、より闊達な音楽解釈が典礼にもたらされた。
 モンテヴェルディのこうした「応用」の骨子は、バロック期をはるかに超え、現代の音楽シーンにまでその影響力を保っている。


初出:音楽現代 2017年2月号


【CD・DVD】
《マドリガーレ集》▼ラ・フォンテヴェルデ
《オルフェーオ》▼カヴィーナ(指揮), ラ・ヴェネシアーナ(管弦楽)
《聖母マリアの夕べの祈り》▼ガーディナー(指揮), モンテヴェルディ合唱団(合唱)





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