ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》作品123

鈴木雅明の指揮でバッハ・コレギウム・ジャパンBCJ)が、ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》を演奏する(2017年2月3日 於 東京オペラシティ)。それに向けて、以前この作品の演奏会のために書いた解説を、ここに再掲載。予習/復習用にどうぞ!
................................................................................
典礼音楽】
 ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》作品123を聴くと、はたしてこれは典礼音楽(実際に儀式に用いる音楽)なのだろうか、という疑問が浮かんでくる。演奏時間の長さ、楽器編成の大きさ、演奏の難易度の高さなどは、宗教儀式に付随する音楽という枠組みを超え出ている。同じような疑問にさらされる曲にバッハの《ミサ曲ロ短調》がある。演奏時間の長さや構成上の問題に、楽曲成立の複雑な事情も相まって、典礼用と言うには据わりが悪い。そのあたりのことを、かつてのライプツィヒ・トーマスカントル(トーマス教会音楽責任者)クリストフ・ビラーに尋ねたことがある。彼は当惑した表情で「《ミサ曲ロ短調》を典礼音楽でないと思ったことはない」と言った。実際、歌手出身であるビラー自らが先唱(グロリアとクレドを導く独唱)を歌いつつ、ミサ司式に則って《ミサ曲ロ短調》を演奏したこともある。
 合唱団とオーケストラを統括する教会音楽監督、そしてバッハの後継者としての矜持が、彼にそのように言わせ、行動させたのだと思う。ビラーと同じように、ベートーヴェンの《ミサ・ソレムニス》は「典礼音楽」だと、ここで言っておきたい。その理由を考えてみよう。


【ミサ・ソレムニス】
  「ミサ」とは、キリストの最後の晩餐を起源とする儀式。キリストの身体(の象徴)であるパンと、血(の象徴)であるぶどう酒とを参加者で分け合うことで、キリストの贖罪を記念し、共同体の一員であることを確認する。「ミサ・ソレムニス」は典礼上、「盛儀ミサ」と呼ばれる大規模な儀式を指しており、複数の聖職者が奉仕する。ミサ曲は、この「盛儀ミサ」で式文を唱えるのに用いられる音楽だ。中世を通じて多くの単旋律聖歌が生み出されてきたが、13世紀頃までには多声音楽が創作されるようになり、14世紀にはミサ通常文(いずれのミサにも共通の式文)5章をまとめて作曲する「通作ミサ曲」が作られるようになる。以後、多くの音楽家が教会での典礼に資するためにミサ曲を書いた。一方、誰もが同じ式文に音楽を付けることから、ミサ曲は音楽家の力を試す格好の材料と捉えられ、その考え方は19世紀の前半にもなお残っていた。

 ベートーヴェンは1819年頃、パトロンであるルドルフ大公の大司教就任ミサのために作品123の作曲に取りかかったが、結局、式に間に合わすことができなかった。しかし、その後も作曲の手を休めることなく、丸4年の歳月をかけてミサ曲を完成させた。特別な機会のためというのが作曲の動機だったが、結果としてこのミサ曲は、ベートーヴェンが自発的に作曲したものと考えてよい。


【真の教会音楽】
 ベートーヴェンは教会音楽に関して次のような証言を残している。
「古い教会旋法では敬虔さが神々しい。神よ、いつか私にも実現させて下さい」(1809年のメモ)
「真の教会音楽を書くためにはグレゴリオ聖歌の通読が不可欠」(1818年の日記)
「このミサ曲には無伴奏の箇所もある。この様式こそ唯一の正しい教会様式だ」(1823年の書簡)
 彼は、教会旋法を用いた音楽を無伴奏で演奏することに、教会音楽として最高の価値を置いている。また、対位法を駆使した古様式への傾倒もみられる。19世紀初頭のヴィーンでは、復古的な教会音楽、たとえばパレストリーナらの音楽が推奨されるようになっていた。ベートーヴェン教会旋法無伴奏・古様式に力点をおき、「真の教会音楽」を実現しようとしたのも、そういった楽壇の潮流が背中を押したからと言えるだろう。これらの特徴は、《クレド》の「そして肉体を受け」(ドリア旋法)・「そして復活した」(無伴奏/ミュクソリディア旋法)でもっとも鮮やかに現れる。また《グロリア》の「父なる神の栄光のうちに」、 《クレド》の「そして来世の生命を」での大規模なフーガに、伝統的な通作ミサ曲への傾倒がはっきりと刻印されている。ベートーヴェンは「真の教会音楽」で、処女懐胎と復活というキリスト教最大の神秘を強調した。そこに彼の典礼文解釈が透けて見える。


【「神の家」を創出するミサ曲】
 《サンクトゥス》と《ベネディクトゥス》の間に位置する器楽間奏《プレルーディウム》にも注目したい。典礼上この場面では、パンがキリストの身体に、ぶどう酒がキリストの血に変化する。ヴィーン宮廷礼拝堂のミサでは当時、この場面でオルガンが用いられていた。木管の低音域に軸足を置く《プレルーディウム》は、このオルガンの響きを模倣している。
 この工夫は、「オルガンのある教会、すなわち神の家で演奏されるのがミサ曲」という従来の「常識」を逆転させ、たとえそこにオルガンがなくても「このミサ曲が響く場所こそが神の家」という構造を作り出している。


【真の典礼音楽《ミサ・ソレムニス》】
「この大ミサ曲の作曲に際し、第一に意図したことは、歌い手にも聴き手にも宗教的な感情を呼び覚まし、持続させることだった」(1824年の書簡)
 ベートーヴェンがここで想定している共同体は決して、敬虔な信徒集団ではない。なぜなら、敬虔な人々の心に改めて「宗教的な感情」を呼び覚ます必要はないからだ。 ベートーヴェンが想定しているのは、(当時の人々なのか人類一般なのかは別として)もろい信仰心しか持ち合わさない聴き手や演奏者である。神の家を創出させる工夫で時間と空間の制約を超え出で、真の教会音楽、すなわち教会旋法無伴奏・古様式の音楽を通して自らの典礼文解釈を知らせることで、神に対して感度の低い人々を教化する。そんなベートーヴェンの意図が、上記の書簡にありありと現れていよう。 彼が目指したのはまさに、「真の典礼音楽」だった。


【CD】
ベートーヴェン《ミサ・ソレムニス》作品123▼ガーディナー(指揮), モンテヴェルディ合唱団(合唱), イングリッシュ・バロック・ソロイスツ(管弦楽)





.