戦後のピアノ協奏曲

 第二次世界大戦後にもピアノ協奏曲を書く作曲家はいたが、その目指すところはそれまでの創作とは異なっている。戦後のピアノ協奏曲は、多くの音楽ジャンル同様、解体される運命にあった。もちろん18世紀以来、鍵盤楽器の協奏曲を書く作曲家はつねに、規範からの逸脱を創作のエンジンとしていた。しかし、解体そのものが目的と化したのは、20世紀に特有のことだ。
 イーゴリ・ストラヴィンスキーは1959年の《ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ》で、十二音技法を使った。ただしストラヴィンスキーは、音列を細切れにして、それをさまざまに組み合わせることで、自分の和声感覚やリズム感覚により適した形へと技法を変化させた。あわせて、テンポを「しりとり式」にリレーすることで、楽章それぞれの区分と連続性とを同時に示すことに成功する。様式や技法を自分の創作法に引き寄せることで、ストラヴィンスキーは新たな絵筆を手にした。このことがのちの創作にもつながっていく。
 1965年に《ピアノ協奏曲》を書いたエリオット・カーターは、力と力のぶつかり合いをベートーヴェン風に描いた点で、旧来の協奏曲のスタイルを利用してはいる。技法の点ではピッチクラス・セット、この協奏曲で言えば3つの音をさまざまに重ね合わせる方法を、コンセプトの点ではピアノ陣営とオーケストラ陣営二者の妥協のない戦闘を採用した。カーターはベルリンで、街を分断する壁を眺めながらこの曲を書いた。対決姿勢を崩さない両陣営は、壁の両側を象徴しているようにもとれる。ここに「協奏しない協奏曲」のラジカルな姿がある。
 《プリペアドピアノのための協奏曲》(1951年)と《ピアノとオーケストラのためのコンサート》(1958年)とでジョン・ケージは、「偶然の音楽・不確定の音楽」の中にピアノ協奏曲を投げ込んでしまった。前者は魔法陣によって自動的に作曲した「偶然の音楽」、後者は様々な要素が演奏現場の選択に委ねられる「不確定の音楽」にあたる。少なくとも技法の点で、解体は進むところまで進んだ。とくに「コンサート」の初演は、聴衆の激烈な反応を引き出した。そこにこの作品の「解体ぶり」がよく表れている。
 こうした状況を尻目に1967年、矢代秋雄もまた《ピアノ協奏曲》を書いた。矢代はNHKの委嘱により1964年にこの作品に着手し、3年後に完成させる。ピアノ協奏曲が解体されていく時勢の中で矢代は、この分野を総括するような曲を書き下ろした。急緩急の三楽章制、冒頭楽章のソナタ形式、終楽章のロンド形式、標準的な管弦楽編成などは、従来の協奏曲の外形をよく守る。一方で、無調の節回しや表現主義的な和音の推移、伸縮するリズムにより、どこか歪みのある音世界を描き出していく。解体されるピアノ協奏曲の姿を、矢代一流の筆で書き残す。この《ピアノ協奏曲》は、そんな歴史的な目論見を内に秘めているかのように響く。

【CD】
イーゴリ・ストラヴィンスキー《ピアノと管弦楽のためのムーヴメンツ》
エリオット・カーター《ピアノ協奏曲》
ジョン・ケージ《プリペアドピアノのための協奏曲》《ピアノとオーケストラのためのコンサート》
矢代秋雄《ピアノ協奏曲》



初出:モーストリー・クラシック 2016年1月号




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