音楽を"副音声"で聴く ─ 管弦楽編曲の話

管弦楽編曲の目指すところ

 独奏曲や室内楽曲を管弦楽曲へと編曲する。きっかけや手法、結果のよしあしはさまざまながら、どの作曲家でもその目指すところはおおむね一致している。
 《亡き王女のためのパヴァーヌ》や《道化師の朝の歌》などに代表される、ラヴェルの自作品編曲には、その「目指すところ」がはっきりと見て取れる。メディアを管弦楽に移し変えることでラヴェルは、原曲に内在するさまざまな特徴を分かりやすく描き出そうとした。何か新しい創意や、手の込んだ工夫を試そうとしているわけではない。すべては原曲のうちにすでに存在している。それを管弦楽の角度から見ると、見通しがずいぶんとよくなる。ラヴェルにとっては原曲と編曲とは地続きだった。
 次のいくつかの点にこの地続きの様子を見ることができる。幅広い音域と、それぞれの音域に固有の音色とを持つこと。拍節は単なる強弱差ではなく、弦楽器の弓づかいや管楽器の息づかいのように、細やかな力動の違いによって描かれること。正しいイントネーション(適した音程)は場面により変化すること。それらが緊張と緩和の交替を表現するのに寄与すること。
 こうしたことはすでに原曲に含まれている。しかし、たとえばピアノ1台でこれらを弾ききるのも、そこからこうした点を聴きとるのも、少し難易度が高い。管弦楽というメディアはこうしたことがらを、よりやさしい言い回しで語りかけてくれる。これがまさに、多くの作曲家が取り組んだ「管弦楽編曲の目指すところ」だ。
 ドビュッシーはサティのピアノ曲《3つのジムノペディ》を管弦楽に移し替えて、簡素な原曲が秘める和音と音色の移り変わりを、虫眼鏡で拡大してみせた。そのドビュッシーピアノ曲子供の領分》などを編曲したカプレは、音色の変化はもちろんのこと、旋律に内在する「弓づかいや息づかいの力加減」を、管弦楽で浮き彫りにしていく。
 強弱だけには還元できない、こうした拍節やリズムの力動性は、舞曲の管弦楽編曲でその威力を発揮する。ブラームスピアノ曲ハンガリー舞曲集》の管弦楽化に、ブラームス自身や大勢の作曲家が、食指を動かしたのもむべなるかな。ブラームスが第1・3・10曲を、同時代人だとシュメリングが第5曲を、同じくドヴォルザークが第17〜21曲(第4集)を編曲している。
 ロマ音楽の持つリズムの特徴や旋律の起伏は、もちろんピアノでも表現可能だが、弦楽器の弓づかいや管楽器の息づかいをもってこそ、曲の中でその真価を発揮する。ここでもまた管弦楽編曲は、原曲に内在する音楽の力強さを増幅する装置として働いている。


時代精神や文化資源の蓄積に呼応する、バッハ作品の管弦楽

 こうした音楽面での動機に、当時の時代精神や文化資源の蓄積などが呼応して生まれてきたのが、バッハの作品を管弦楽化する動きだ。古典派以来の音楽語法がさすがにくたびれてきて、新しい(より古い)音楽への興味が高まったのに加え、1900年に旧『バッハ全集』の刊行が完了し、バッハの音楽に接する環境が整った。当時のこうした状況を受けて、熱心な聴衆や音楽家の中には、バッハ・ルネサンスの熱にうかされるものが少なくなかった。
 マーラーは《管弦楽組曲》の第2番 BWV1067と第3番 BWV1068とから5曲を抜粋して、当時のオーケストラ用に編曲し、それらをまとめて新たな組曲とした。シェーンベルクはオルガン曲《プレリュードとフーガ 変ホ長調》BWV552や《来ませ、造り主なる聖霊の神よ》BWV631、《装いせよ、おお、魂よ》BWV654の管弦楽版を生み出している。
 こうしたバッハの管弦楽化は一般に、必ずしも評判がよかったわけではない。バッハ・ルネサンスは、その当時としては良心的な方法で18世紀前半の音楽を呼び覚まそうとした。バッハの音楽を20世紀のメディアである大オーケストラで捉えなおそうとする管弦楽編曲は、こうした流れに逆行するようにも感じられたからだ。
 同じバッハ編曲でも、マックス・レーガーの行ったものはより穏当だった。バッハの管弦楽曲やオルガン曲を、ピアノ1台で弾けるように編んだ。演奏会や教会に行かなければ体験できないバッハの作品を、家庭でも味わえるようにとの配慮だ。これは18世紀の初め以来、編曲作品が担ってきた重要な役割のひとつ。現代であればその役目を、録音が果たしている。
 一方でやはり、バッハ作品の管弦楽化には抗えない魅力があった。レオポルド・ストコフスキーがそれを体現している。彼は1914年に《ヨハネ受難曲》BWV245のアリア《ついに叶えり》を管弦楽用に編曲したのを皮切りに、37作品を管弦楽化した。先述の通り、彼の編曲にも反対の声が相次ぐ。
 たとえば《パッサカリアとフーガ ハ短調》BWV582の管弦楽版を聴くと、その声にも一理あることがわかる。オルガン同様、オーケストラも音色を変化させるのが得意だが、ストコフスキーの変化のさせ方はオルガンの語法からずいぶんと離れている。その結果、18世紀音楽の視点からすると重要なパートが、重厚な音の波間に埋もれていく。旋律分節(アーティキュレーション)は複数の声部の描き分けに有効だが、ストコフスキーはそこにあまり頓着しない。そのせいか、くんずほぐれつして進む対位法的な場面も、そのたびごとに目立った声部を強調する力技で押し切ってしまう。
 他方、20世紀前半の音楽家がバッハの原曲に内在するさまざまな特徴をどう捉えていたか、というドキュメントとして、ストコフスキーをはじめとした作曲家たちの編曲は、実に興味深いものでもある。オルガンとは異なる音色変化も、20世紀初めの趣味を表しており、その結果、あるパートが浮き出たり埋もれたりすることもまた、当時の考え方を反映している。対位法に対する眼差しにも時代精神がにじむ。編曲を通してバッハを見るというより、バッハを通して編曲者の時代を見るのが、21世紀の楽しみ方かもしれない。


初出:モーストリー・クラシック 2015年12月号





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