小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』



小野光子『武満徹 ある作曲家の肖像』音楽之友社, 2016年
 ヨハン・ニコラウス・フォルケルは1802年、世界最初のバッハ評伝となる「バッハの生涯、芸術と作品について」を刊行した。作曲家の死後約半世紀、彼を識らない世代が、彼とゆかりのあった人物からの聞き取りなどを通してその生涯を振り返る。証言したのは作曲家の長男ヴィルヘルム・フリーデマンと次男カール・フィリップ・エマヌエル。そのことからこの書物は、バッハ学の基礎資料として200年以上、命脈を保っている。
 小野光子武満徹評伝は、このフォルケルの仕事になぞらえることができる。作曲家の死後20年、彼を直接は識らない小野が、彼とゆかりのあった人物からの聞き取りや多くの資料を通してその生涯に迫る。
 武満に関する資料は多い。それらはよく保存されている。また、彼を識る関係者も大勢いる。そういう幸いな状況は一方で、大量の情報を地道に処理する手間を生じさせる。この基礎調査に20年、携わり続けた人物は小野の他にない。450頁になんなんとする書物の分量は、その調査の厚みを物語る。
 ただし、その論述は乾いたデータ主義ではなく、データから引き出しうる人間の感情類型を描く点で、とてもしっとりとしている。それは武満の遺族との交流によるところが大きい。いずれの家族でもそうであるように、本人以上に武満を知る人々の証言は、人物像を描くのに大きな力となる。
 バッハ学者のブルーメは、フォルケルによるバッハ評伝を「一種のマニフェスト」と評した。私もまた、小野による武満評伝を「一種のマニフェスト」と考える。ところどころで著者がもらす感興の声が、密やかでありながらも力強いからだ。量としては全体の0.5パーセントにも満たないであろう。その力強さは調査の足腰の強さに由来している。
 フォルケルの評伝がそうだったように、小野のこの書物も武満学の基礎資料として長く生き残るだろう。注や年譜など巻末の資料も含め、その資格は充分である。


初出:モーストリー・クラシック 2016年11月号



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