グレン・グールド -- 懐疑と信頼



 グレン・グールドは人間の耳を疑い、一方で人間の想像力には大いに信頼を寄せていた。
 彼が一切の演奏会活動から手を引いて、著述・放送・録音に専念するようになったのは1964年。31歳の時だった。コンサートの場が音楽作品に対して持つ「プラシーボ(偽薬)効果」を拒絶し、音楽が真の「薬効」を発揮することを目指す。グールドは、聴衆がいとも容易く「偽薬」に騙されることを、よく知っていた。その点で彼は、人間の耳を疑っていた。他方、リスニングルームにこもって録音に耳を傾けるような聴き方をよしとした背景には、孤独に楽曲に沈潜する聴き手の音楽的想像力に対する、大きな信頼がある。
 こうしたグールドの姿勢は、演奏のひとつひとつにはっきりとあらわれている。たとえばバッハの「平均律クラヴィーア曲集第2巻」。ホ長調のフーガには、彼の「耳への不信」が顔をのぞかせる。この楽章はルネサンスの対位法のスタイルに擬して書かれている。冒頭のテーマもグレゴリオ聖歌風だ。すべてのパートが対等に存在感を示すのがこの様式の身上。とはいえ、演奏家も聴衆もしばしば、旋律と伴奏、テーマとエピソードという「主役と脇役」を設定してしまう。グールドはそんな「耳」を疑った。
 そこで彼はこの「主役と脇役」を解消するために、高音部と低音部との内側で埋没しがちな内声を、ここぞとばかりに厚く響かせ、声部のバランスをデフォルメすることで、やや反動的にパート間の平等を成し遂げる。さらに、エピソード部でパートが絡み合い出すと、特徴的なアーティキュレーションで旋律に鋏を入れる。その特殊な「句読点」を各声部で受け渡す。それにより、それぞれの声部がエピソード部で、テーマ部以上に密接な関わりを持つことを、半ば強引に示す。そもそも鳴っているけれど、聴こえていない音。その音をあぶり出す。人間の耳に対する不信は、ここに極まっている。
 「ニュルンベルクのマイスタージンガー」第1幕への前奏曲には対照的に、人間の想像力への強い信頼がにじむ。管弦楽のためのこの曲をグールドは、ピアノ1台で演奏できるように編曲した。オーケストラで鳴る音をすべてピアノから出せるわけではない。だから編曲に際して、声部の取捨選択が行われる。グールドは「鳴っているけれど聴こえない音」を、「平均律」のホ長調フーガと同じく強調する一方で、「鳴らさなくても聴こえる音」を大胆にカットした。原曲を知るものなら誰もが憶えているような部分を省き、耳の届いていなかった部分に注意を向けさせる。彼は人間の耳を疑うとともに、「鳴かぬ烏の声を聴く」人間の想像力に大いに頼っている。
 この深い深い疑いの眼差しと、高い高い信頼の面持ちとが交錯するのが、グールドの演奏の芯。こうしたダイナミクスは、音楽の端々であのようなテンポ、アーティキュレーション、バランス、サウンドとして結実していく。この落差に聴き手は、いつの間にか巻き込まれる。


【CD】
バッハ「平均律クラヴィーア曲集」全曲
Glenn Gould Plays Beethoven & Wagner
バード&ギボンズ作品集


初出:モーストリー・クラシック 2016年11月号



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