バーデン・バーデン イースター音楽祭2016


 ドイツ南西部のバーデン・バーデンは、温泉保養地として有名な街だ。長逗留の療養客も多い。そのため、長い滞在でも飽きがこないよう、この街には湯治客向けの各種施設がたくさんそなえられている。ローマ風の公衆浴場、川沿いの遊歩道、色とりどりの花の咲くバラ園、いくつかの美術館、さらには欧州で最も美しい内装のカジノまで。

 そんな「歓楽」の中心となるのが、オペラやコンサートの公演を行う劇場だ。1998年に開場したバーデン・バーデン祝祭劇場は、良質なプログラムで近年、この街の魅力を高めてきた。そんな祝祭劇場が2013年、イースター音楽祭をベルリン・フィルハーモニー管弦楽団とともに始めた。ふだんオペラの演奏を行わないベルリン・フィルが、祝祭劇場のピットに入り、サイモン・ラトルがとっておきの演目を振る。そのオペラ公演の合間には、管弦楽室内楽のコンサートも持たれるから、10日ほどの音楽祭期間は休むひまもなく(とはいえ楽しく)演奏会通いをすることになる。4回目となる今年は、3月19日から28日までの10日間、祝祭劇場を中心に市内の各所で31公演が持たれた。
 今年の目玉はワーグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」。ラトルとベルリン・フィルが満を辞して取り組むプログラムだ(19・22・25・28日)。
 舞台設定は現代。第1幕の美術はマンガのコマ割り風、もしくはビルの壁面を剥がしたような見た目(ザ・ドリフターズの長屋コントと言ったほうが通りがよいか......)で、同時進行する各部屋の様子が、客席から一度に見渡せる。それが第2幕になると横長画面の映画風、第3幕では舞台平面を活かした演劇風となり、第一幕も含め、それぞれにふさわしい劇的表現がとられる。一貫しているのは、プロジェクション・マッピングを含む、光の表現だ。小さなもので言えば、トリスタンやイゾルデの点すタバコの灯りや、暗い舞台に散らばる将校たちの手袋の白色。大きなもので言えば、舞台の進行に覆いかぶさるように映写されるさまざまな映像。マンガ・映画・演劇といった表現技法の違いによって各幕に視覚上の対比が出る一方、全幕に登場するこうした筋の通った光の表現によって、舞台美術の一貫性が保たれた。
 演出も細部まで行き届く。瞬間瞬間の積み重ねが音楽や美術と呼応する様子には、パズルのピース同士が組み合わさっていく感触がある。それが「トリスタンとイゾルデ」の筋書きを描き出すだけでなく、現在、欧州で議論を呼ぶ難民とその受け容れの問題に、人々の意識を向けさせる。
 こうした視覚上・想念上の奥行きをいっそう深め、舞台の大黒柱として当夜、君臨したのが管弦楽だ。このオペラでラトルは、調のある音楽の緊張と緩和、両者の交錯による段落感をひとつひとつ大事に取り扱った。そのおかげで、たとえば冒頭の「トリスタン和音」や、句点が先延ばしされていく和声的肩透かしなどが、新鮮な表現技法として聴き手の耳に届く。
 イゾルデのヴェストブロックにせよトリスタンのスケルトンにせよ、充分な声量ながら声を張り上げるというわけではなく、つねに繊細な歌いぶりで管弦楽と歩みを共にする。音楽上のまとまりのよさは、歌手たちの弁えのある歌唱によってもたらされた。
 管弦楽公演には世界的な奏者がソリストとして起用された。ヨーヨー・マがホーネックの指揮のもと、シューマンの「チェロ協奏曲」を(20日)、ジャニーヌ・ヤンセンがラトルの指揮のもと、ブルッフの「ヴァイオリン協奏曲」を披露した(26日)。白眉は内田光子がラトルの指揮のもと弾いた、モーツァルトの「ピアノ協奏曲第22番」だった(21・27日)。
 「ピアノ協奏曲」冒頭の堂々とした付点リズムにすでに、オーケストラの音楽運びの芯が見える。弦楽器の弓づかいや管楽器の息づかいの綾を、始めの数小節で表現。遅れて登場する内田の独奏も、これに応える。低音部には弦楽器の音色、高音部にはフルートの音色をあて、両者を中音域のクラリネット風の音でつないでいく。こうして管弦楽とピアノという「大小のオーケストラ」が、さかんにおしゃべりを交わすようなモーツァルトを実現する。
 管弦楽は小さな編成で、ピアノの音も控えめ。大劇場に朗々と響くといった風情ではない。それにもかかわらず、ぎゅっと目の詰まった密度の濃い音楽が耳に届く。内田、ラトルとベルリンフィルの、横綱相撲だった。
 オーケストラ単独で言えば、ショスタコーヴィチの「交響曲第4番」が、きわめて強い印象を残した。「音楽の考え方」を中心に置いて、その上で各パートの演奏技術の精度を最大限に追い込むと、管弦楽には信じられないほど力がみなぎる。たとえば弦楽パートの中で、弓の上下運弓には力動の差異があり、その差異は子音の多彩さに、拍節の推進力に、和声の緊張感の推移につながるなどということを共有し、その上で飽和するまで技術水準を高める。そうすると作品のどんな場面でも、そこにあるべき音楽が明確に像を結ぶ。オーケストラのそうした姿勢によって、「堆積し、崩壊し、溶けていく。それを螺旋状に繰り返す」といったショスタコーヴィチ特有の音楽の運びが、超高精細で目の前に開ける。この音楽祭の歴史に残るであろう名演だ。
 20公演にも及ぶ昼間の室内楽の内、とりわけ素晴らしかったのは20日の演奏会。ドイツの若手バリトン、ハンノ=ミュラー・ブラッハマンが、シューベルト「魔王」を中心にドイツ歌曲を歌った。演じ分けの声色が違うという歌手は多々あれど、演じ分けの息の形が違うという保守本流本格派は、ドイツでも稀な存在だ。
 バーデン・バーデン、ベルリン・フィル、ラトル、多彩なソリストたち。一流が一流を呼ぶさまを見るのに、この音楽祭はうってつけの機会。来年は4月7日から17日に開催される。ベルリン・フィルの次期音楽監督キリル・ペトレンコの出演も決まっている。( http://www.festspielhaus.de


写真:内田光子サイモン・ラトル (c)Monika Rittershaus
初出:音楽現代2016年6月号




.