バーデン・バーデン ペンテコステ音楽祭2015(4)


 舞台はサーカス劇場。花形ブランコ乗りヴィオレッタが、ピエロや軽業師、客らとともに宴に興じる……。『椿姫』をオルガ・ペレチャッコ、演出をロランド・ヴィリャソン、指揮をパブロ・ヘラス=カサドが担当する「若々しい」布陣。バルタザール・ノイマン・アンサンブル(合唱&管弦楽)が、歌手の息づかいに寄り添う音楽運びで、要所を引き締めていく。(2015年5月25日、バーデン・バーデン祝祭劇場)

 世界的なテノールのひとりヴィリャソンが演出をするとあって、舞台の様子に注目が集まった。読み替えは今に始まった事ではないので、たとえばそれが22世紀のまだ見ぬ未来であっても驚くに値しない。この日の肝はヴィオレッタにバレエの黙役をつけたこと。体調や心情の虚実、性格の二面性を、「歌うヴィオレッタ」と「踊るヴィオレッタ」とが同時に表していく。何から何まで舞台で語り尽くさずにいられないのが、ヴィリャソンの習い性のようだ。
 問題は、聴衆が自らの想像力で補って余りある部分ですら、すべて黙役が描ききってしまうところ。舞台の現状、聴衆の想像力、それらをもってしてもなお隠れてしまうけれど、台本にとっては重要な深層をあぶり出す、といった形で黙役が投入されることが望ましい。ひとつ効果的だったのは、ヴィオレッタがジョルジオ・ジェルモン(アルフレッドの父親)に、自分の身の上を「正直」に話す場面。ここでは黙役が消え、歌うヴィオレッタだけが舞台に残ることで、裏表のない「正直」な告白が行われていることを示唆する。とはいえ、その他の部分では深層をなかなかえぐらない「もうひとりのヴィオレッタ」スタイルは、目にうるさい印象を与える。
 一方、音楽は深みに達していた。 バルタザール・ノイマン・アンサンブルは19世紀のスタイルの楽器を使う。20世紀半ば以降の楽器に比べ、音色が人間の声に近いことが特徴のひとつ。そのうえ音楽家たちは、一見、息の長いような旋律にも鋏を入れて、音楽に句読点を打っていく。管楽器はもちろん、弦楽器ですらその弓の運びで、声楽の持つ息づかいにきちんと平仄を合わせる。そうなると聴こえてくるのは、全体が「声」となったサウンドだ。「歌手の息づかいに寄り添う音楽運び」の正体はこれ。
 こういう土台の上で歌うのだから、歌手がのびのびしなわけがない。とりわけ、題名役のペレチャッコは、2500の大劇場でも「絶叫」せず、表現の幅を弱音側に広げていった。といっても、単にささやき声を駆使するわけではない。ピアニッシモであっても、声も言葉もよく客席に届く。重要なのは声の大きさではなく、表現の「ピアノ性」。ピアノやピアニッシモの持つ緊張感の色合いを細やかに描くのだ。針金のように細いが、貫き通す力を持ったピアノ、繊細だが懐の深さを併せ持つピアニッシモ。表現を構想する力と、それを実現する力とがバランスよく宿っている。よいソプラノ。管弦楽とあわせ、音楽の成果は充分だ。


写真:バーデン・バーデン祝祭劇場のチケット売り場(旧駅舎なので乗車券売場をそのまま使っている)


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