2.33倍の「英雄」― スクロヴァチェフスキ&読響のベートーヴェン《交響曲第7番》



 スクロヴァチェフスキの指揮が当夜、「真の英雄交響曲」を導いた〔2014年10月8日(水)東京芸術劇場▼第11回 読響メトロポリタン・シリーズ〕。
 ベートーヴェンの《交響曲第7番》と《同8番》は、作曲時期(1812 年前後)が重なっていることから「ふたご」と言ってよい2曲。5番・6番は短い音型(動機)の徹底的な展開に成功するが、その副作用として美しく流れる旋律を犠牲にした。動機の展開を残しつつ、流れるような旋律を響かせるにはどうするか。ベートーヴェンが到達した答えは、舞曲だ。
 それぞれのダンスに合わせて設定される拍子やリズム。それに乗せ、ときに流れるような、ときに荒々しい旋律が奏でられる。ベートーヴェンはそこに目をつけ、7番・ 8番を書き上げた。だから両者は「ふたごの交響曲」というよりも「ふたごの舞曲集」だ。第7番の各楽章はジーグ・マーチ・スケルツォ・コントルダンス、第8番の各楽章はクーラント・エコセーズ・メヌエット・ブレに聴こえる。7番と8番はそれぞれ、ベートーヴェンの「イギリス組曲」と「フランス組曲」といえるものなのかもしれない。
 だから《第7交響曲》の演奏に際し、その舞曲性に着目するのは必要不可欠なこと。驚いたことにスクロヴァチェフスキは、その一歩先を踏まえてこの曲を解釈し直し、その新たな姿を示した。
 指揮者はこの交響曲を、ひとつの長大な変奏曲として企図したようだ。主題は「ダクテュロス」、長短短格の韻律だ。この長短短のリズムを長短、短短長、短長などと展開していく変奏曲。スクロヴァチェフスキの意図はそこにあった。
 その展開も一方向へ突き進むものではない。イメージとしては、第2楽章の「長短短長長」を基にして、その韻律を変形させながら、前後の楽章へと受け渡していく。どの楽章にも長短短の韻律とその展開とが、駆動装置として埋め込まれる。各楽章の中では、声部間の「リズムの対話」を浮き上がらせ、上下・水平方向の展開も押さえる。こうして全方向に放射状に広がる「韻律の網」をめぐらせる。第1楽章のジグも、第3楽章の基本リズムとその展開も(トリオ部でも!)、終楽章の推進力を司るのも、韻律「長短短格」とそのヴァリアントだ。
 そのために指揮者が打った布石はいくつかある。まずは長短短のリズム造形をはっきりさせること。この明暗が鮮やか過ぎるほどに鮮やかであるからこそ、展開の妙がすみずみまで行き届く。指揮者の要求に楽団もよく応え、音楽の彫りも深い。つぎに全楽章をアタッカで通したこと。「ひとつの長大な変奏曲」の緊張感を保ち、その韻律展開を印象づけるのに、じつに効果的な一手だ。
 大切なのは長短短のリズムが、「英雄」を表す韻律であること。古代ギリシャの昔から、この韻律は英雄詩形とされ、叙事詩で用いられた。そんな「修辞学」はやがて、音楽のメトリークにも受け継がれた。ベートーヴェンももちろん、その伝統に連なる。
 こうした伝統も踏まえて、スクロヴァチェフスキが導いたのは「英雄変奏曲」という答え。英雄詩形を放射状に展開し、交響曲をひとつの「韻律展開」として捉え、アタッカでひとつなぎにすることで長大な「英雄変奏曲」を実現する。こうしてスクロヴァチェフスキは、《第3交響曲》を凌ぐ「英雄性」を《第7交響曲》に持たせることに成功した。
 この日、老指揮者が教えてくれたのは、「真の英雄交響曲」はこれだ、というまったく新しい視点だ。演奏伝統も厚いこの曲で、そんな新しさに気付かせてくれるところが、この指揮者の真骨頂。新鮮なベートーヴェンはMr.Sに聴け!


【第11回 読響メトロポリタン・シリーズ】
2014年10月8日(水)東京芸術劇場スタニスラフ・スクロヴァチェフスキ(指揮)読売日本交響楽団管弦楽)▼ブルックナー交響曲第0番 ニ短調》, ベートーヴェン交響曲第7番 イ長調


追記
なお、前後半を通して、ダイナミクスはつねにレジスター転換(音色変化)を伴った「オルガン・スタイル」。音量の幅は実際、それほど大きくなくて、迫力の源泉はむしろ音色変化のほう。できる音楽家はみなその点に抜かりがない。近々の演奏だと、下野=フサ然り、メッツマッハー=ミサ・ソレムニス然り。


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