ツィンマーマン《わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た》の解釈メモ

「わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た。見よ、虐げられる人の涙を。彼らを慰めるものはない。見よ。虐げる者の手にある力を。彼らを慰める者はいない。既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから。」(コレヘトの言葉〔伝道者の書〕第4章第1〜3節 / 新共同訳)

 2014年7月18日(金)東京・すみだトリフォニーホールで、ツィンマーマンの作品『2人の話者、バス独唱とオーケストラのための福音宣教的アクション《わたしは改めて、太陽の下に行われる虐げのすべてを見た》』が演奏された。日本初演。バス独唱はローマン・トレーケル、語りは松原友と多田羅迪夫、管弦楽インゴ・メッツマッハーの指揮する新日本フィルハーモニー交響楽団が担当した。
 以下、作品の解釈に関わる私的メモ。
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【メモ1】

『わたしは改めて太陽の下に行われる虐げのすべてを見た』では、最後にコラール「満ち足りています Es ist genug」が器楽(歌詞なし)で引用される。その詩には楽曲を読み解く鍵がある(けれどプログラム冊子に対訳が載っているわけではない)。原詩とその訳(拙訳)とは次の通り。

Es ist genug. / Herr, wenn es dir gefaellt, / So spanne mich doch aus! / Mein Jesu koemmt; / Nun gute Nacht, o Welt! / Ich fahr ins Himmelshaus, / Ich fahre sicher hin mit Frieden, / Mein grosser Jammer bleibt danieder. / Es ist genug.

満ち足りています。/ 主よ、あなたの心にかなうなら、/ この世界から僕を解き放ってください。/ 僕のイエスがおいでになる今こそ / さよならのときだ、世界よ!/ 僕は天の家に向かいます、/ 確かな足取りで、心安らかに、/ 不幸せはこの世界に置いたまま。/ 満ち足りています。

詩:F・J・ブフマイスター「足れり、主よ、我が魂を取りたまえ」(1662年)第5節/曲:バッハ『おお永遠、いかずちの言葉 II 』BWV60 第5曲


【メモ2】

 『わたしは改めて太陽の下に行われる虐げのすべてを見た』で朗唱のバスは、一貫して聖書の「伝道者の書」の語句を唱える。ただ1箇所だけ例外があって、それは終盤、ドストエフスキーの作品中の「そして解き放ってやる und er laesst ihn hinaus...」という言葉を歌うところ。それがどうしても気になる。
 『わたしは……』の最後に器楽で引用されるコラール「満ち足りています Es ist genug」の詩に鍵があると思い確認したところ、「満ち足りています。/主よ、あなたの心にかなうなら/この世界から僕を解き放ってください。 ...spanne mich doch aus!」とある。件の語句とコラールとは呼応していたのだ。コラールでは「解き放ち」と「天の家に向かう Ich fahr ins Himmelhaus」とが結び付けられている。
 引用コラールは断片の提示で、必ずしも曲が最初から最後まで示されるわけではない。仮にきちんと引用が閉じられていたら、解放=死=平安に憧れ、そこにこそ満ち足りた世界があるといったように、ある種のプロテスタント的死生観として結論付けられたかもしれない。しかし、コラールは閉じていない。このことは、解放=死=平安に到ることもなく(死ぬこともできず)、満足を得ることもできない、引き裂かれた状態を示唆している。 
 コラールの直前、友の存在を示したのちに「孤独は禍いだ Weh dem, der allein ist!」と叫ぶバス(=ソロモン)。もしコラールの引用が閉じていたのなら、寄り添う人物がみつかり、それに見守られながら平安=死を迎える、ということなのかもしれない。しかし、コラールは閉じなかった。
 世界にがんじがらめになり(解き放たれることもなく)、孤独で、死ぬこともできない。絶望はとても深い。作曲家はこの曲を書いて間もなく、拳銃で自らを解き放った。


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