大井浩明「ベートーヴェン:ピアノソナタ全32曲連続演奏会 第1回」



 ピアノと聞いて現代人とベートーヴェンとでは思い浮かべるものが違う。その違いに古典派音楽の本当の姿が潜んでいる。そんな違いを大切にしながら鍵盤楽器に取り組む音楽家がいる。大井浩明もそのひとり。
 大井はこのたび、ベートーヴェンが思い浮かべるであろうピアノを相棒に、当時の音楽の持つ生き生きとした姿を追い求めるシリーズを東京・淀橋教会でスタートした。この連続演奏会は全8回で、作曲年代順に並んだソナタを、それぞれの時期と様式とにあわせたピリオド楽器フォルテピアノで披露する。2013年9月16日の第1回は第1ソナタから第4ソナタまでを扱った。
 作曲年と楽器の製作年(この場合は本歌の楽器の生まれ年)との差は5年内に収まっている。音楽がいままさにそこに鳴り響くものであることも考え合わせれば、このシリーズで我々は「生まれたまま」のベートーヴェンピアノソナタ》を聴くことになる。
 ところが「生まれたまま」のベートーヴェンを聴くためには、これだけでは材料が不足している。楽譜・楽器とともに大切なのは演奏様式だ。18世紀には18世紀の語法がある。この語法を欠いたまま演奏すると、古語の「をかし」を「可笑しい」とか「お菓子」と言ったり理解したりするような、それこそおかしな事態に陥る。古語の知識が古文に命を吹き込むように、18世紀語法が18世紀の音楽に意味を与えるのだ。
 それを踏まえた大井がフォルテピアノを弾くと、楽器は饒舌に語り出す。比喩としての「語り」ではない。文節(=分節)と子音とに彩られた文字通りの語りだ。右手と左手の音形の受け渡しが「対話」を感じさせるのはもちろん、単旋律からでさえ複数の登場人物のおしゃべりが聴こえてくる。たとえば第1番の第1楽章。単純な順次下行にさえ3人ほど役者が登場している。減衰の速さ・音域による音色の違いといったフォルテピアノの特性と、18世紀の分節法を鍵盤上に繰り広げる大井の指とが、演出家と役者の役割を果たしている。
 こうした「語る楽想」を彩る舞台装置のひとつに調律法がある。当夜の演奏会、鈍色の前半から中入りを経て後半に入ったとき、霧の晴れたような響きを感じたのは当方だけではないだろう。この日のフォルテピアノはヴァロッティ音律(-1/6P.C.をFから始める方法)で調律されたアントン・ヴァルター(1790年頃)モデル。この調律法によると前半のヘ短調イ長調は鈍色に鳴り(主和音の第3音が12等分平均律の短三度/長三度に近い)、後半のハ長調は霧が晴れたように清々しく響く(主和音の第3音が純正長三度に近い)。後者のほうがよいと言っているのではない。前者の「鈍色」も後者の「清々しさ」も、どちらも各ソナタの性格に寄り添っている。
 こうしたことが実感として迫るための条件はとても厳しくて、何かが欠けるととたんに力を失ってしまう。それらを演奏で統合した大井に大きな拍手を送りたい。表現力に不足があるように誤解されるフォルテピアノ。表現力不足をもたらしているのは本当に楽器なのか?楽器のせいにせず、楽器から学ぶ奏者がいてはじめて鳴り始めるのがフォルテピアノだ。さあ「生まれたまま」のベートーヴェンを聴こう。チャンスはまだ7度も残っている。

追記:昨晩のアンコールはベートーヴェンピアノ三重奏曲 第3番 ハ短調》作品1-3 の第4楽章をピアノ1台用に編曲したもの。そもそもこの三重奏が交響曲の代用品的なメディアだったわけで、交響曲→三重奏→独奏とベートーヴェンが生物濃縮した感じ。ルートヴィヒが毒だとは思わないけれど・苦笑

案内:ベートーヴェン:ピアノソナタ全32曲連続演奏会(全8回)