正気の《幻想》が狂気の底を深める ― ブロムシュテット&ゲヴァントハウス管



 ライプツィヒにいる。当地は初夏のはずなのに寒く、雨が続き、旅の疲れもどっと出て正直、コンディションは良くない。この状態で演奏会にいって平気か、と思いながら足を運んだゲヴァントハウス。平気だった。平気と言うよりもむしろ、体力と気力を回復して帰ってきた。この日の「良薬」はベートーヴェン《クラヴィーア協奏曲第1番》とベルリオーズ幻想交響曲》。アンドラーシュ・シフ独奏、ヘルベルト・ブロムシュテット指揮、ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏だ(2013年5月30日)。

シフの役者ぶり

 ベートーヴェンを弾いたシフは千両役者だ。そのことについては6月発売の「月刊ピアノ」に書くので、そちらをご覧いただくとして、ひとつだけ触れておきたいのは自作で臨んだ第1楽章のカデンツァ(独奏者の腕の見せ所)。そこまでの楽章本割りとほぼ同じ長さの長大なカデンツァは「おしゃべりな英雄の独り芝居」を「身振りと表情」付きで聴かせる(第1主題の長短短=ダクテュロス=英雄音形)。百面相シフ。おかげで気力回復。

正気のブロムシュテット

 ブロムシュテット、異様に元気。あれだけキャリアのある人に、あれだけ体力が充実しているとどうなるか。精神は揺るぎなく正道を行く。簡単に言うと「正気」。《幻想交響曲》とて徹頭徹尾、正気の音楽運びだ。
 さて、ここで「正気の《幻想》などつまらない」と思った向きは見解を改めるべきだろう。《幻想交響曲》は19世紀前半の音楽だ。だからどんなに新奇に聴こえても、その基本的な書法はやはり19世紀前半のもの。その意味でベートーヴェンとさして変わりはない。しかしこの曲に「様子のおかしさ」「目つきの異常さ」を感じるのもまた、当然のこと。問題は《幻想》の「19世紀前半性」を前面に出すか、「様子のおかしさ」を前面に出すかだ。
 「様子のおかしさ」を前面に出せば、「様子のおかしい」楽想のオンパレードになり、本当の「様子のおかしさ」が埋没する可能性もある。一方、「19世紀前半性」を前面に出すと、様子のおかしいポイントは絞られるけれど、それによって一層、狂気の底は深くなり、そこから異常な目つきでこちらを見ているベルリオーズの姿が浮かび上がる。

 ブロムシュテットは後者を選んだ。ひと続きに見える旋律にも鋏を入れ、18世紀来のアーティキュレーションに仕立てる。それによって対話する楽想を実現。サウンドの芯を内声部に担わせて、あの音域特有の「おっさんのうなり声」のような音を全編に渡り突き通す。ヴィブラートの有無を表現に結びつけるのは、欧州の物わかりのよい指揮者にとってはもはや普通のこと。ヴィブラートを付けない場面と付ける場面とを分け、さらに付ける場面では振幅の大きさや速さを変え、多面的な表現に結びつけた(cf. カンブルラン&読響のベルリオーズ《ロミオとジュリエット》)。
 こうして19世紀前半的に諸問題を処理していくと、あるとき、ベルリオーズが尋常ならざる目つきでこちらを眺めているような瞬間に出くわす(たとえば、異様な速さで移弦しつつサウンドの下ごしらえに目の色を変えるコントラバスなど)。その瞬間との邂逅こそ、19世紀前半性を前面に出す演奏の狙いとするところだ。
 徹頭徹尾、正気だから、ある瞬間の「目つきのおかしさ」に心底、恐ろしさを感じる。 正気の《幻想》が狂気の底を深めた一夜。


写真:ブロムシュテット&ゲヴァントハウス管弦楽団(2013年5月30日 於ライプツィヒ・ゲヴァントハウス)