“ヒラリー・汗” は世界を征服できない ― ヒラリー・ハーン リサイタル


2013年5月14日(火)東京オペラシティ
コリー・スマイス(ピアノ)

 ヒラリー・ハーン。積極的に作品の委嘱・演奏に取り組む「新しい音楽性向」と、常にヴィブラートを掛け上下弓とも均質で和声に頓着しない「因習的な米国流演奏法」とが同居するヴァイオリニスト。優秀ではある。しかしそれは、因習的演奏の世界における優秀さであって、真の音楽家の卓越した姿からは遠い。
 当夜はハーンが委嘱した作品6曲と、モーツァルト、バッハ、フォーレとをほぼ交互に置いたプログラム。まず後者の演奏から「ハーンは調性音楽に向いていない」ということが分かる。たとえばバッハの《シャコンヌ》の第4小節や第16小節(『新バッハ全集』の小節数に従う。なぜか冒頭のアウフタクトも数えているけれど)。最も緊張感の高まる属和音に当たる部分で、導音(主音の短二度下の音。主音への橋渡し役)が腰砕けになるのは和声進行=緊張と緩和のメカニズムを見失っている証拠。和声が分からない人物には当然、調性音楽は向いていない。和声に無頓着な「米国流=無手勝流」を脱しなければ、バッハもモーツァルトも背骨のないまま演奏され続けることになる。
 そんなハーンが作品委嘱とその演奏とに精を出すのはある意味、理に適っている。というのも、21世紀の作曲家に曲を委嘱すれば大抵の場合、非調性音楽が納品されるから。不向きな調性音楽を演奏しないで済む。ところが非調性音楽でも「因習的な米国流演奏法」が顔を出す。たとえばハーンは、地の音(特殊奏法でない音)に常にヴィブラートをかける。楽譜に指示があるわけではない。では奏者の解釈か。解釈ですらない。ヴィブラートを掛けるところと掛けないところとを分け、それを表現手段として利用するのが「解釈」なのであって、常に掛けるのは単なる「判断停止」。オートマティック・ヴィブラートは因習というほかない。「新しい音楽」の「新しさ」は因習を抜け出た先にあるはずだ。
 「新しい音楽」を聴衆に届けることには大きな価値がある。しかし新しい音楽にしろ旧い音楽にしろ、今のヒラリーにはその本質を表現する能力がない。楽曲の新旧にこだわるよりも、自らの奏法・音楽観(鑑)の革新にこそ目を向けるべきだ。さもなければ「因習」の狭い範囲で一流と言われるだけの提琴屋で終わるだろう。このままでは、いくら飛び回ったところで世界を征服することはできないのである。

追記:録音でもハーンの「緊張の腰砕け」が確認できる。バッハ《シャコンヌ》(第4小節や第16小節に注目)→ ミルシテインhttp://bit.ly/q0eAdn〕 VS ハーン〔http://bit.ly/10M2Xqp

追記:たとえばイザベル・ファウスト(Vn)は、アンドレアス・シュタイアー(Cem, Pf)に弟子入りすることで音楽観の転換と奏法の改革とを成し遂げた。