「舞踏の聖化」とは何か?― サロネン&フィルハーモニア管

 エサ=ペッカ・サロネンフィンランドの作曲家兼指揮者。現在、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者を務める。このたびは手兵を引き連れ日本ツアーを敢行した。当方は全国8公演のうち2公演に足を運んだ。今回はベートーヴェン《第7交響曲》をメインに据えた東京オペラシティ公演について(2013年2月7日)。
 ベートーヴェンの《交響曲第7番》と《第8番》は、作曲時期(1812 年前後)が重なっていることから「双子」と言ってよい2曲。この「双子」は、《第5》《第6》で積み残したいくつかの音楽的課題を解決するために生まれた。ベートーヴェンは前作の交響曲で、短い型=動機の徹底的な展開に成功したけれど、その副作用として美しく流れる旋律を犠牲にした。
 《第7》《第8》では、その点に解決が図られている。動機の徹底的な展開を残しつつ、美しく流れるような旋律を響かせるためにベートーヴェンが到達したのは、舞曲だ。舞曲は舞踏のための音楽で、それぞれのダンスのステップに合わせて拍子やリズムが設定される。それに載せ、ときに流れるような、ときに荒々しい旋律が奏でられる。ベートーヴェンはそこに目をつけ《第7》《第8》を書き上げた。だから両者は「双子の舞曲集」というわけだ。
 両交響曲の各楽章を舞曲種になぞらえて言うと、《第7》はジグ・マーチ・スケルツォ・コントルダンス、《第8》はクーラント・エコセーズ・メヌエット・ブレ。両交響曲はそれぞれ、ベートーヴェンの「イギリス組曲」と「フランス組曲」と言えるかもしれない(ちと苦しいが)。だから第7交響曲の演奏に際して、音楽家バロック来の舞曲感(舞曲鑑)を持っているかどうかが成功の分かれ目となる。
 さて、ワーグナーが《第7交響曲》を指して「舞踏の聖化」と言ったことは有名だけれど、その「舞踏」とは上記のようなこと。では「聖化」とは何か。それをサロネンとフィルハーモニア管がこの日、教えてくれた。
 彼らの演奏はこうだ。第1楽章は「ジグ」。速い3拍子系の拍節に載って「長短短」のリズムが推進力を生み出す。さらにこのリズムを「短短長」や「短長ー」「長ー短」へと展開することで、硬直した歩みを免れるのだ。当夜の演奏者はエッジのたったタンギングボウイングでリズムの輪郭をはっきりとさせる。ときに「長短短」や「短短長」が転ぶ(譜割り通りにならない)こともあるが、推進力は失われない。というのも、そんな些細なミスでは崩壊しない「ジグ感」を指揮者と楽団員とが共有しているからだ。
 並の指揮者だとアクセント記号のついた第2拍を強調したくなる葬送行進曲。結果として1拍子の行進になりがちだ。サロネンはあくまで拍節(力動性)とアクセント(音勢のヴァリアント)とを分けて考える。こうしてわれわれは、2拍子の足取りをしっかりと追体験することになる。
 第1・第2楽章で聴衆の内に身体化したリズムは、第3楽章のスケルツォで一旦、解体される。速すぎる3拍子(♩=396!)は、この楽章が2拍子なのか3拍子なのか4拍子なのかを曖昧にし、聴衆を混乱させる。トリオ部でナチュラル・トランペットとバロックティンパニとが奏でた素っ頓狂(←褒めてる)なロングトーン(属音保続)も、無時間制=無拍節性を感じさせるのに充分の威力だった。
 そんなスケルツォからアタッカで第4楽章へ。飛び上がり、すとんと落ちる運動のコントルダンスで聴衆は、ふたたびリズムの渦に巻き込まれるという寸法。第3楽章スケルツォでの「リズム解体」が、第4楽章コントルダンスでの「リズムの再身体化」を強固にする。
 つまり「身体化→解体→再身体化」という流れで聴衆を熱狂に巻き込むことが《第7交響曲》の狙いであり、それを指してワーグナーは「聖化」と言ったのだ。これは「学ぶ→忘れる→再び学ぶ」で記憶がより強固になるのとよく似ている。その流れを「舞曲」で実現したから「舞踏の聖化」というわけだ。
 第1楽章や第4楽章の熱狂的な性質や、第2楽章の沈痛な面持ちにかくれがちな第3楽章。しかし、このスケルツォ楽章の「解体屋」的本性にこそ「舞踏の聖化」の鍵がある。そのことを教えてくれたこの日の演奏は、とてもとても知的だ。とてもとても知的なのに、そのことによって「熱狂」が担保されているのだから、音楽とは不思議なもの。サロネンの「作曲家兼指揮者」性がきれいに出た公演に大きな拍手を!

アンスネスとのベートーヴェン《クラヴィーア協奏曲 第4番》については、来月発売の月刊ピアノに批評を掲載▼アンスネス、褒めようと思えばいくらでも根拠立てて褒められるけれど、19世紀前半のクラヴィーア協奏曲が備えていなければならない事柄2点を欠くために、あの演奏は評価できず▼詳しくは当該批評を!