深いのはお辞儀だけではない ― ユジャ・ワン



 サンフランシスコ交響楽団が15年ぶりに来日(2012年11月19日 サントリーホール)。マイケル・ティルソン・トーマス音楽監督になって2度目の日本公演だ。この日のプログラムはラフマニノフの《パガニーニの主題による狂詩曲》作品43と、マーラーの《交響曲第5番 嬰ハ短調》。北京出身のピアニスト、王羽佳(ユジャ・ワン)がラフマニノフで共演した。今回は前半の《パガニーニ……》について。
 出てくるなり素っ頓狂なお辞儀を深々としてみせた王羽佳。不器用なのかしら、と思わせる身のこなしだが演奏は器用なものだ。器用と言っても小手先のピアニストではない。中音域からはビオラの音色。そこから駆け上ぼるとクラリネット風の透過力ある高音が聴こえてくる。低音域での打鍵力は大きな体のピアニストに敵わないが、中高音とのバランスが悪いわけではない。むしろ低音弦楽器の響きの出ている点が光る。
 これはひとりピアニストの技術的問題なのではなく、音楽表現のもっと大きく深い部分に関わっている。ピアノとオーケストラの一体性が大幅に増す。管弦楽とピアノはそうとう異なった「楽器」で、もともと異質。そこに音色の一体性が加味されると、異質な両者なりの同質性が生じる。離れてはいるけれど、どこか重なり合う部分ができる。音域による音色差をしっかりと描き分けることで王羽佳は、管弦楽へと歩み寄った。
 いっぽうの管弦楽も王との距離を縮める。ヴィブラートとノンヴィブラートを使い分けることで、ピアノとの一体感を演出した。ピアノは当然、ヴィブラートをかけられない。だから管弦楽はピアノとの共同作業、とりわけ「サウンドづくり」の部分にノンヴィブラートで臨み、ピアノとの溶け合いを高水準で実現した。これはオーケストラの内部でも効果的に働く。というのも、管楽器の中にはそもそもヴィブラート奏法を行わない楽器がある。それらの楽器を含む「音色作成作業」はノンヴィブラート奏法でこそ効果を上げるわけだ。
 ピアノ・管弦楽、双方からの歩み寄りによって実現した一体感。指の技術を見せるための変奏曲なら管弦楽はいらないはず。そこにオケがいる、ということの意味をとことんまで突き詰めた演奏は、「軽業」に終わらない深みをこの曲にもたらした。