サンタは五度圏を旅する ― セゲルスタム&読響



読売日本交響楽団 第151回芸劇マチネーシリーズ
2013年1月26日(土)東京芸術劇場

 第522回定期演奏会に引き続きレイフ・セゲルスタムが指揮棒を振る。R・シュトラウス交響詩死と変容》とシベリウスの《交響曲第2番》との間に、セゲルスタムの自作《交響曲第252番「ヒッグス粒子に乗って惑星ケプラー22bへ」》を挟むプログラム。第252番は世界初演だ。この日の演目はたいへん凝っている。しかも、その凝りようがきちんと音楽で表現されているところが素晴らしい。
 まずは両端2曲の関係。《死と変容》と《第2交響曲》は「物語の運び」を共有している。すなわち、どちらもティンパニのオルゲルプンクト(主音の保続)の元、短調から同じ主音の長調へと転じ、金管楽器の教会風の響きでクライマックスを築く。こうした大きな「緊張と緩和」の枠組みがカタルシスをもたらすのも、小さな「緊張と緩和」つまり「ドミナント→トニック(属和音→主和音)」の彫琢に抜かりがないから。ドミナントの緊張感を腰砕けにしないことがボディーブローのように効果を発揮、大枠のクライマックス作りに寄与した。
 つぎに両端2曲と《ヒッグス粒子……》との関係。《死と変容》も《ヒッグス粒子……》も標題音楽という性質を持っている。《第2交響曲》の作者シベリウスは言うまでもなく、セゲルスタムの同郷の大先輩だ。つまり《死と変容》の遺伝子と《第2交響曲》の環境因子とが《ヒッグス粒子……》には流れ込んでいる。
 ではこの《交響曲 第252番》、いったいどういう曲なのか。ひとつの音の強調から始まったこの作品。そのうちにピアノを弾くセゲルスタムが即興的にドソレラミシと奏でたり、ティンパニがC-Gの交互打ちをしたりと完全五度を強調し始める。その後、他の音程関係やさまざまな音響が登場。最後にティンパニが静かに半音下行音形を鳴らして曲を閉じる。
 この作品は「ヒッグス粒子に乗って惑星ケプラー22bへ」という標題を非常にきれいにトレースしている。ただし宇宙旅行として描いているわけではない。この標題を音楽理論、すなわち「完全五度から出発し、やがて半音に到る、という五度圏の旅」に変換しているのだ。
 西洋音楽の12の音は、完全五度を積み重ねてはオクターブ移高することで得られる(C-G-D-A…)。だから西洋音楽にとって完全五度は音を生み出す源泉なのだ。ヒッグス粒子が万物の質量の源泉であることと重なる。12の音の中でもっとも近しい関係性が同度と完全五度だとすれば、もっとも遠い関係性は減五度と半音だ(右上の五度圏図参照。Cを中心に考えると完全五度のFやGは隣、減五度のFisや半音のH・Cisは向かい側に位置する)。作品を閉じる役目を負う「半音下行」はスタート地点の「同度・完全五度」からずいぶん遠いところにある。「半音」は、地球から620光年彼方の「惑星ケプラー22b」というわけだ。
 このようにセゲルスタムは、当時の科学ニュースから得た感興を換骨奪胎し、音楽に相応しい方法に読み替えて巧みに作品化した。なるほどこれは、なかなか知的な遊びでもあるし、音楽である以上、徹頭徹尾、感性論的な(感受性で受け取るべき)対象でもある。こういった多面的な在り方が、クラシック音楽のありようの一側面だとすれば、セゲルスタムはまさしく、クラシック作曲家のメインストリームを歩んでいると言える。