モーツァルトとマーラーをサンタが出会わせた―セゲルスタム&読響



読売日本交響楽団 第522回定期演奏会
2013年1月21日(月)サントリーホール
 その見た目と、北欧という出自から「サンタクロース」との愛称もある指揮者レイフ・セゲルスタム。このたび読売日本交響楽団を指揮してマーラーの《交響曲第5番 嬰ハ短調》を披露した。コンサートの前半にはピアノの菊池洋子を迎え、モーツァルトの《協奏曲第23番 イ長調》K.488 を演奏。18世紀末と19世紀末、2つのウィーンが「ひと続き」であるという、当たり前ながら忘れがちなことを当夜、セゲルスタムが教えてくれた。
 鷹揚なのは何も、指揮者の歩き方だけではない。交響曲の歩みもまたゆったりとしたもの。そんな構えだから、マーラーがスコアに細かく細かく書き込んだフレージングとアーティキュレーションはどんな場面でもなおざりにされず、きちんと音楽の節目を造形していく。
 こうした運びは2つの効果をもたらした。ひとつは、ゆったりとした速度なのに、歩み自体には間延びした様子が見られないこと。アーティキュレーションが音楽の推進力を担う。もうひとつは、こうした差配がマーラーの音楽に流れる「18世紀性」を浮き彫りにしたこと。旋律ひとつとっても、マーラーと聞いてわれわれが想像するような「ロマン派的長大メロディー」ではなく「18世紀的おしゃべりメロディー」がオーケストラから聴こえてくる。
 そう、セゲルスタムのマーラーにはモーツァルトが息づいている。サンタさんがマーラーモーツァルトを出会わせたのだ。ことここに及び、前半の《イ長調協奏曲》の意図がはっきりとする。一見、18世紀末と19世紀末のウィーンの音楽を「対置」したかのようなプログラム。しかしその実、18世紀末と19世紀末とは断絶せず、そこにあるのは「ひと続き」のウィーンの音楽なのだということを、当夜の演奏は雄弁に語っている。
 その語りが説得力を持つのも、マーラーの演奏だけでなく、モーツァルトの演奏にもモーツァルトがしっかりと聴こえるから。菊池洋子はゼクエンツ(同じ音型を繰り返す部分)にもきちんと「句読点」を打つ。音楽の装飾部分と骨組み部分とを区別できているので、出るところが出て引っ込むところが引っ込むプロポーションのよい演奏。真っ当な和声感を持っているから「緊張と緩和」の表現も的確だ。ドミナント(属和音)のテンションをさまざまな方法で保つことが出来るので、どの楽章でも飽きがこない。むしろ、アダージョで目が覚めるくらい。そんな見事な独奏にセゲルスタム&読響は、内声を山椒のようにピリリと利かせたり、ヘミオラ(三拍子系の終止部分に現れる変拍子)を気持ちよく決めたり、緊張感の介添えをしたり、着地点のクッション役をしたりして応える。モダン演奏ではそうそうお目に掛かれない「本当の18世紀音楽」だ。
 こういう前半があったからこそ聴衆は、マーラーモーツァルトを聴き、世紀を超えてウィーンがひと続きであることを悟り、菊池洋子が日本の宝であることを知ったのだ。てんこ盛りの「プレゼント」に、セゲルスタムは本当にサンタクロースなのではないかと思わされた夜。いま、おもてには小雪が舞っている。