アートにはどうして支援が必要なのか

 何度も蒸し返して申し訳ないですが、重要な議題だと思うのです。以下、以前議論した「音楽芸術は公共財か?」のダイジェスト版とお考えください。詳論は2011年12月1日付の記事から6回にわたって掲載しています。

(1)アートとそれを取り巻く社会との間には大きな生産性ギャップがある(例・弦楽四重奏という楽種は生まれたときから現在にいたるまで4人の奏者を必要とし、200有余年、その生産性に変化がない。一方、社会全体の生産性はかなり向上している)。

(2)そのギャップを埋めるには、[A]受益者負担を増やすか、[B]誰かの支援を受けるか、の2通りしかない。[B]にはさらに2通り。〈ア〉公的資金(端的に税金)を入れるか、〈イ〉私的資金を入れるか。

(3)〈ア〉を選択するのであれば、アートは公共財でなければならない。「公共財である」というのは「アートは、アートに興味がない人にとっても便益を持つ」ということ(例・警察は、警察機構を否定する無政府主義者の安全をも守る)。

(4)注意すべきは、全てのアートが公共財でなければならない、と言っているのではないということ。税金が欲しけりゃ公共財でなければならない、と言っているだけ。公共財であるのがいやならば(納税者の代表たる市長らにつべこべ言われたくないのであれば)、受益者負担を増やすか、私的資金を獲得すればよい。

(5)受益者負担を増やす、というのは、演奏会ならばチケット代を高くすることに相当。それに対して「限られた階層しかアートにありつけなくなる」と反論する向きも。服装や食事では受益者負担原則が貫かれ、自分の懐と相談して態度を決める。僕のような貧乏人は贅沢を我慢をするわけだ。アートの受容のときだけ我慢を避ける理由はどこにあるのか?服も食も欠くべからざる文化だよね?

(6)税金が欲しけりゃ「公共財になる」というのが経済学的に、また制度理論美学的に導かれる唯一の選択肢。それで、具体的にどうすれば「公共財」になれるのか。そんなのは税金をほしがっている人間が必死こいて考えれば良いことなのだけど(←そういう努力をしていないぞ、と批判されていることが分かっているのかしら?)、行きがかり上、具体例を。

(7)例・公的資金を獲得したい音楽家(とその関係者)は、経済権的著作権(著作財産権)を捨てて、すべての関連著作物(作曲と実演の記録と)をパブリック・ドメイン化してはどうか。経済権的著作権(著作財産権)とは、人格権的著作権(著作者人格権)である公表権・氏名表示権・同一性保持権などを除く権利で、複製権や上映権などを含む。これらの権利は譲渡可能で、売買されることもある。これらの経済権的著作権(著作財産権)を捨て著作物をパブリック・ドメイン化することは、現在アートが欠いている実質的な外部経済、すなわち社会に対する便益となる。「すべての人が自由に使える音楽」であることを理由に公共財としての立場を主張し、もって必要な経済的支援を得ようとするのはまことに筋の通ったことだ。