スクロヴァチェフスキはバイロイトからヴィーンを眺める―読売日響第147回オペラシティシリーズ



 指揮者スクロヴァチェフスキが9月30日、読売日本交響楽団ベートーヴェン交響曲で共演。東京初台のオペラシティで第2番と第3番を披露した。
 第518回定期演奏会に引き続きこの日も、スクロヴァチェフスキは輪郭のはっきりとした「緊張と緩和」で楽曲を造形。和声進行の彫琢に余念がない。ひとつひとつの終止(ドミナント―トニック)を丁寧に扱う。その積み重ねが、ソナタ形式のプランをくっきりと描き出すのだ。
 また、リズムの力動性に対する目配りも申し分ない。3拍子系の楽章に見られる変拍子ヘミオラ(|1'2'3|1'2'3|→|12'31'23|)の部分も、しっかりと「大きい3拍子」の身振りで指揮し、ギア・チェンジの妙を生かし切る。
 そんな高度なリアライゼイションからは、スクロヴァチェフスキの天才とともに、彼の限界までもが顔を出す。限界とは、彼が「バイロイトからヴィーンを眺め」てしまっていることだ。
 このたびの来日でスクロヴァチェフスキが披露した演目は2つ。ワーグナーウェーバー・プログラムと、ベートーヴェン・プログラムだ。この二つは密接に関連している。すなわち、ワーグナーの音楽の「芽」がウェーバーに認められ、同じくべートーヴェンにも認められる、ということ。スクロヴァチェフスキの主眼は、ベートーヴェンの音楽に見られる「ワーグナー性」のあぶり出しにあったように思える。
 一見、真っ当そうなメッセージだが、実は大変危うい。ワーグナーの音楽に「ベートーヴェン性」が現れることはあっても、ベートーヴェンの音楽に「ワーグナー性」が現れることは、歴史が不可逆である以上、あり得ない。そういう「あり得ない事態」を、さもあり得るように錯覚するのは、我々がベートーヴェンワーグナーとを同一平面で議論できる時代に生きているからだ。
 そんな視点がベートーヴェンにとって不当なのはもちろんだが(なぜならベートーヴェンワーグナーの存在を知る由もないのだから)、それはワーグナーにとっても不当。というのもワーグナー自身、自らの創作の前に位置するベートーヴェンと、自らのこれからの創作とを同一平面で眺めることはできないのだから。
 しかしスクロヴァチェフスキは、ワーグナー演奏の視点からベートーヴェンを捉えようとした。そのことで失われたものは多い。もっとも大きいのは管弦のバランス感覚だ。
 ベートーヴェン交響曲第1番と第2番には、同じような批評が残っている。それは「管弦楽と言うよりも管楽合奏(ハルモニームジーク)のようだ」というもの。古典期のオーケストラ編成の研究(N・ザスラウ)によれば、当時のウィーンの各オーケストラでは、管楽器が2本ずつの編成の場合、弦楽5部は6・6・4・3・3名だった。当時の批評と編成とを突き合わせてみると、そうとう管楽器寄りの音響バランスだったことが分かる。そしてこれが、ベートーヴェンの革新性のひとつだった。
 ところが、現代のオーケストラの「常識的な」編成だと、管楽器の数は同じでも弦楽器の人数は古典期の2倍以上。その響きは弦楽器が主体だ。そんな弦楽器寄りの響きが「常識」となったのはまさに、ワーグナーが活躍した時期から。だから、ワーグナー的な「常識」からベートーヴェンを演奏すると、ベートーヴェンの目指したサウンドには近づけない。ソロであれば息づかいや弓づかいで表現するニュアンスを、オーケストラはサウンドで表現する。だから「管弦のバランス」は、オーケストラにとって死活問題とも言える。ワーグナー演奏の視点からベートーヴェンを眺めると、そういった点を読み違えてしまう。
 楽譜にかじりつき、演奏を重ねることで到達できる境地もある。しかし「ベートーヴェンのオーケストラ・サウンド」のように、楽譜外資料から再構成すべき事柄も大いに存在する。そこに当たってみなかったことがミスターSの限界と言えよう。
 もし、現代のオーケストラでベートーヴェン交響曲を演奏するのであれば、弦楽器を減員するか、管楽器を倍増させるべきだ(倍管)。そこから浮かび上がる「ベートーヴェン性」はとてもはっきりとした輪郭を持っている。その筆でワーグナーを描けば、ワーグナーの音楽に存在する「ベートーヴェン性」はもちろんのこと、ワーグナーの音楽の「ワーグナー性」も、よりいっそう浮き彫りにされるはずだ。そのとき初めて、スクロヴァチェフスキが目指そうとしたことは成功するのである。