スクロヴァチェフスキは誰を葬ったのか?― 読売日本交響楽団第518回定期演奏会



 米寿の指揮者スタニスラフ・スクロヴァチェフスキが、古希のクラリネット奏者リチャード・ストルツマンを迎え、読売日響を指揮。自作を交えた3曲を披露した(9月24日, サントリーホール)。当夜、スクロヴァチェフスキは、「甘美な死」がどれだけ「安息」に満ちあふれたものかを、充実した形で示してくれた。問題はそれがどのように示されたのかということ。そして死んだのは誰だったのか、ということだ。

 ウェーバーの歌劇《魔弾の射手》、指揮者の自作《クラリネット協奏曲》、ワーグナーの楽劇《トリスタンとイゾルデ》の管弦楽版を並べたプログラム。この管弦楽版は、楽劇全体をデ・フリーヘルが1時間ほどの長さに再編した曲だ。

 《魔弾の射手》でスクロヴァチェフスキは、「緊張と緩和」の交錯を手抜きなく彫琢した。和声の緊張と緩和にそのつどしっかりと落とし前をつけていく。たとえば、不協和音を厚く響かせてドミナントの緊張感を保つ。そうすると、そのあとにぱっと明るく開放されるにせよ、ふわりと柔らかに着地するにせよ、トニックの安定感はこの上ないものとなる。「これこそ調性音楽」と言っても過言ではない仕上がりに、老楽匠の手腕を思う。

 そんな「和声の職人仕事」は《魔弾…》にのみ効果を発揮したわけではない。むしろ後半の《トリスタンとイゾルデ》にこそ、《魔弾…》での仕事が利いていた。《トリスタンとイゾルデ》はいくつかの特徴によって、調性音楽に変革をもたらしたとされる。冒頭の和音はその代表だが、ここでは無限旋律に注目したい。無限旋律とは、あるメロディーに和声的解決を付けず=段落感を付けずに次のメロディーへと流れ込んでいくもの。句点が付くと思いきや、読点を打つだけで次の部分へと入り、それが延々と続いていくような文章と比べることが出来るだろう。開放感や安定感は得られず、緊張の濃度だけが刻々と変化していく。これが《トリスタン…》の旋律の特徴だ。

 この「緊張の濃度の変化」でもまた、演奏会前半で見せたスクロヴァチェフスキの和声感がものを言う。きちっと緊張を高めるからこそ、安定へと向かう力が高まる。 安定へと向かう力が高まるからこそ、それがはぐらかされたときの落ち着かない気持ちも高まるのだ。

 そんな緊張の連続は、最終的にロ長調の主和音に落ち着く。そのとき聴衆は、イゾルデが愛のうちに死んだことをさとる。「甘美な死」は「安息」に包まれたのである。この主和音の安定感、開放感、安息感は、 それまでの寄せては返す「緊張の波」によって増幅される。いっぽう「緊張の波」の不安感、閉塞感、焦燥感は、《魔弾…》に見たような彫りの深い「緊張づくり」によって増幅されるのだ。

 ドレスデン歌劇場ゆかりの2人の作曲家によるオペラもの、というつながりだけではなく、より深い音楽的な関連を、全後半の2曲は持っていた。プログラムの音楽性の高さがここにしかと表れているし、当夜の演奏はそれに説得力を持たせるに充分の出来映えだった。

 さて、2曲に挟まれた指揮者自作の《クラリネット協奏曲》は実は、前後2曲を懐に収めてしまうような大きな枠組みを持ったものだ。この曲は西洋音楽史の流れに言及するように組み立てられている。第1楽章でははじめ、五度音程が頻繁に聴こえてくる。やがてそれが積み重なり音階を作る。さらに音階の中から音が選抜され旋法を形作る(中盤、ドリア旋法が聴こえる)。つまり、古代ギリシャからルネサンス期にいたる音楽に言及しているわけだ。

 第2楽章では冒頭に「バッハ音型」が現れる。これは「Bach」の名前にちなみ、ある音から半音下がり、そこから短三度上がった後また半音下がる音型だ。このバッハ音型は楽章を通して用いられる。協奏曲は一貫して無調だが、第2楽章の中盤には、トロンボーンの不協和音に邪魔されながらも明確に調性的な部分が表れる。こうして、調性音楽の確立したバロック期から古典期にかけての音楽史が表現される。

 つづく第3楽章では、民族的な楽器やリズム素材といった19世紀から20世紀はじめにかけての創作を思わせる手法がふんだんに用いられる。こうした西洋音楽史の流れ全体をスクロヴァチェフスキは、20世紀後半の作曲技法で描き出している。

 このように《クラリネット協奏曲》は、20世紀後半のいち楽曲であると同時に、西洋音楽史全体を表現する「自己言及音楽」なのだ。「《魔弾…》=調性音楽の隆盛」から「《トリスタン…》=調性音楽の終焉」までの音楽史が、その枠組みにすっぽり収まることは言うまでもない。

 したがって、当夜のプログラムもまた西洋音楽史全体を表す「自己言及プログラム」だったと言える。《クラリネット協奏曲》で西洋音楽史全体に触れ、《魔弾…》と《トリスタン…》とで調性音楽の隆盛と終焉にスポットを当てる。そうだとすれば、《トリスタン…》の最後、ロ長調の主和音で天に送られたのは、ひとりイゾルデだけではない。このとき調性音楽もまた、葬られたと言ってよいだろう。

 スクロヴァチェフスキは、和声の緊張感をしっかりと高めることで、その反動としての安定感・開放感を充実させ、《トリスタン…》の最後を飾る協和音に「安息に満ちた甘美な死」のイメージをしっかりと結びつけた。いっぽうで、プログラム上の工夫から西洋音楽史全体に言及し、「調性音楽の死」までもそこで表現してみせたのだ。立派で、知的で、ロマン的な演奏会。こうした仕事を前にすると、指揮者が米寿であることなどはもはや、後景に退いてしまう。仕事の若々しさこそが、スクロヴァヘフスキの身上なのだと思い知った次第。