「現代音楽の展開:1951 - 2011」-- 湯浅譲二



 現在、神奈川県立近代美術館葉山館では「現代音楽の展開:1951−2011」(全5回)が開講されています。「第一線で活躍する音楽家たちを招き、それぞれの体験を踏まえつつ、現代音楽の可能性について語りつないでいく試み」とのこと。
 8月6日の第1回目は、作曲家・湯浅譲二さん(1929-, 福島県郡山)が1950年代の自らの創作を振り返り、貴重な音源の再生を交えながらお話くださいました。以下は、湯浅さんがお話しになった事柄のメモ。既知のことも多いでしょうが、もしかすると流通している情報を書き換えるような事実もあるかも知れません。

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凡例
○:湯浅が直接関係している事項
●:湯浅が関係していない事項
:補足事項
《》:湯浅の作品
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1940年代(戦時中)

○郡山の小学生時代、吹奏楽部に入部。専売公社のバンドとともに戦没兵の葬送行進に参加。ショパン《葬送行進曲》のテンポと小学生の歩く速度とが大幅に異なるため、音楽と行進とがちぐはぐになる。

*幼心に音楽の時間の多層性を感じ取る。


1950年(慶應義塾時代)

○湯浅は医学部への進学を前提とした教養課程(法学部所属)に在籍(後に中退)

秋山邦晴(当時早大生)が慶應の現代音楽研究会に出入り。

○秋山とともに新作曲派協会(日本の"国民楽派"との認識/早坂文雄ら)の演奏会に通う。

清瀬保二のもとに出入りしていた武満徹と鈴木博義が同協会で作品発表(当時20歳)。

○秋山とともに楽屋を訪ね、鈴木・武満と面識を持つ。


1951年 

●11月、読売新聞社主催「ピカソ展」前夜祭のバレエ《生きる悦び》(台本:秋山邦晴、音楽:武満徹, 鈴木博義)に音楽家・美術家らが参加。

●《生きる悦び》に参加した音楽家・美術家ら実験工房(瀧口命名)結成。

瀧口修造の「実験精神」という思想を実験工房の中で共有した。


1952年

○湯浅、慶應義塾を中退、実験工房に加入(当時23歳)。

○処女作・ピアノのための《パストラール》バルトーク、ミヨー、コープランドの影響があるとの本人の談話。

○ピアノのための《スリー・スコア・セット》。第1曲でシンメトリー構造を、第2曲でコラールを、第3曲でパッサカリアを試みるなど、音楽的説話性(ナラティヴィティー, 湯浅の用語)=音楽の時間分節法を模索。

○以後、クシェネック『十二音技法の基づく対位法の研究 』(Studies in counterpoint: based on the twelve-tone technique, 1940)などを用いて十二音技法の学習を進める。


1953年

○洋の東西を考えるため、実験工房内で鈴木大拙の読書体験を共有(ただし武満は結核で入院中につき不参加)。

○同年9月の実験工房第五回公演で、駒井哲郎の《レスピューグ》北代省三《見知らぬ音楽の話》のオートスライド2作品にミュジック・コンクレートによる音楽をつける。

*日本におけるミュジック・コンクレートの嚆矢は一般に、黛敏郎の《ミュージック・コンクレートのためのXYZ》(1953年11月放送)と言われるが、湯浅は実験工房の試みが日本で最初のミュジック・コンクレートだったと主張している。たしかに第5回公演は同年9月だから、11月の日本文化放送協会による黛作品の放送に先行している。

《ドのためのうた》。ドの固執音上の変奏曲。

メシアン《ミのための詩》を誤解して作曲。メシアンの「ミ」は彼の妻の愛称。


1954年

○橘バレエ団委嘱作品《サーカス・ヴァリエーション》。子供たちのバレエのために作曲。

*当時、調のあるフランス近代風の音楽も書いていた。


1955年

○初の十二音技法作品《7人の奏者のためのプロジェクションズ》。時間の分節法をさまざまに試みた。音と音との時間的距離を、連続性が感じられない状態にまで引き延ばすなど。

*十二音技法の作曲家としてヴェーベルンを評価。シェーンベルクやベルクのロマン主義にはシンパシーを抱かないとの本人の談話。また、ヴァレーズに衝撃を受けたとも。

三島由紀夫作、武智鉄二演出の現代能《綾の鼓》の音楽を作曲。

*十二音技法は独墺系音楽の時間を彫琢するための手段であり、日本の時間概念を表現することは出来ないことに気づく。


1957年

実験工房の活動期の最終年。

*ただし実験工房を解散した覚えはない、解散などとは一言も言っていない、との本人の談話

《内触覚的宇宙》。ハーバート・リードの著作『イコンとイデア』に触発され「内触覚的宇宙」なる思想に到る。

*リード曰く「新石器時代になると、後にヨーロッパ美学の規範となった<シンメトリー>の概念が現出してくるが、それ以前の旧石器時代のロスコーやアルタミラの洞窟絵画では、そうした美的規範によらず、<内触覚的に>宇宙が捉えられていた」とのこと。外形(幾何/反幾何)によらず、(今日風に言えば)クオリアの発露として音楽を作り出す、ということか。その後、II〜Vの《内触覚的宇宙》が作曲される。

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 「音楽の時間の多層性」に気づいた幼年期。日本の音楽的時間をどのように彫琢するかに思い悩んだ50年代。十二音技法にかすかな光明を見たが、結局は西洋の語法であることに気づく。そして「内触覚的宇宙」へ……。そんな湯浅さんの創作の流れが、実験工房の勃興と軌をひとつにしていたことがよく分かります。
 さて、次回(8月20日)は一柳慧さんを講師に迎え「1960年代の音楽と現在」について語っていただきます。こちらも必聴!


写真:湯浅譲二