ライプツィヒ・バッハ音楽祭2011 (6)「トーマス教会に響く晩課 II 」



 (承前) モンテヴェルディが活躍したヴェネツィア・聖マルコ大聖堂と、バッハが活躍したライプツィヒ・トーマス教会との共通点は、どちらも聖歌隊席が向かい合わせに配置されていること。音楽が生まれる場の特徴として、この点はとても大切です。というのも、この配置そのものが「音楽の形」を規定するから。
 聖マルコ大聖堂から生まれて来た音楽のスタイルとして最も重要なのは複合唱様式(cori spezzati)です。これは、向かい合わせの席に陣取った2組の合唱隊が掛け合いを演ずることで、ステレオ効果を狙う書法。この「2つの音響体が競い合うスタイル」がさらに協奏様式(stile cocertato)へと繋がっていきます。コンチェルタート様式とは、要素の対比を表現の主軸に据えたスタイルのこと。声楽と器楽、ポリフォニーとホモフォニー、強音と弱音、鋭さと丸み、迫力と繊細さといった対立項を1曲に統合する様式です。これがバロック期の合唱の代表的なスタイルとなりました。
 一方、トーマス教会。この会堂の合唱隊席が生んだ最大の成果は《マタイ受難曲》です。《マタイ受難曲》は合唱&オーケストラが2組必要で、その2つの音響体が競いつつ協同し、イエスの受難を描いていきます。バッハがそういう書法にたどり着いたのも、トーマス教会の聖歌隊席の懐が深く、それが向かい合わせに配置されていたから。だからライプツィヒ・バッハ音楽祭では、《マタイ受難曲》は必ずトーマス教会で演奏されます(ニコライ教会では行わない)。《ミサ曲ロ短調》でも「オザンナ」で二重合唱が採用されています。
 このように、教会建築が音楽の姿に影響を与えていることが分かるわけですが、今回のバッハ音楽祭における「晩課とミサ曲」は、このことを媒介にして結びつけれられています。つまり、教会建築としての共通点、そこで生まれる音楽の共通点、それがエキュメニカルの思想へと敷衍される、といった次第。
 ですから我々は、当夜の晩課の各所に《ミサ曲ロ短調》のオリジンを聴かなければならなかったし、意識せずともそれは聴こえて来たと言えましょう。そしてそれはバッハが「イタリア」と切り結んだ抜き差しならぬ関係を、もっとも濃密に表現しているはずです。
 山ほど指摘できる事柄があるので、ここでは、詩篇112篇のユニットから詩篇113篇のユニットへといたる流れに注目するに留めましょう(プログラムの4番目から5番目のまとまり)。
 グレゴリオ聖歌アンティフォナ《一同は聖霊に満たされ Repleti sunt omnes》、オルガンの独奏を挟んで、コンチェルタート様式で歌われる詩篇112篇《いかに幸いなことか、主を畏れる人 Beatus vir》、ソプラノ独唱のためのモテット《おお、汚れなき者よ O intemerata》で「詩篇112篇ユニット」。続いて、グレゴリオ聖歌アンティフォナ《泉なるあなた Fontes et omnia》、ふたたびオルガンの独奏を挟んで、通模倣の《ほめ讃えよ僕たち Laudate pueri Dominum》、2人のソプラノのためのモテット《渇きを覚えている者は皆 Venite, sitientes ad aquas》で「詩篇113篇ユニット」。
 もっとも古格のあるグレゴリオ聖歌(単旋聖歌)、コンチェルタート様式(モンテヴェルディにとって「当世風」の合唱)、モノディー様式(「当世風」のソロ)、グレゴリオ聖歌、通模倣(ルネサンス様式の合唱)、 モノディー様式と楽曲が並んでいることが分かります。様式の点から言えば「旧・新・新・旧・旧・新」と並び、編成の点から言えば「無伴奏単旋合唱・合唱・ソロ・無伴奏単旋合唱・合唱・二重唱」という組み合わせ。ヴァラエティに富んだ様式・編成の楽曲が色とりどりに並びつつ、ひとつの典礼を形作っていきます。これはまさにバッハが《ミサ曲ロ短調》で試みたことそのものです。バッハは、グレゴリオ聖歌の引用、古様式(通模倣)、協奏様式、当世風(オペラ風)アリアなどを縦横無尽に駆使しながら、典礼文を彫琢したのでした。
 各パート、ソロひとり、リピエノふたりと最小限に絞られた合唱(Vox Hvmana)は、直接的な声で典礼文を「読み上げて」いきます。もちろん歌であり歌唱に違いないのですが、そこで展開されているのは「美しいの声の競演」ではなく「明晰な言葉の積み重ね」。

 ヴェニスバロック・オーケストラはそんな「歌」を絶妙なコラ・パルテで支えていきます。コラ・パルテとは器楽の各パートが声楽と重複した旋律を演奏し歌を下支えすること。このバランスが優れていると、声とも楽器の音ともつかない芯のあるサウンドにのって、詩がしっかりと聴衆の耳元に届きます。
 もうひとつ重要なことは、器楽のフレージングが声楽のそれと一致すること。たとえば、弦楽器はブレスの必要がありませんから、仮に同じ楽節でも声楽とフレージングが異なります。それが一致していないと確かなコラ・パルテにはならないのですが、当夜のヴェニスバロックはそうとう高いレヴェルで一致している。それもそのはずで、オーケストラの連中はみな(声を張り上げるわけではないにせよ)、声楽によりそって実際歌っているのです。
 こうした声楽と器楽の妙なる共同作業は、ポリフォニーでは声部の分離(声部の「交通整理」)を促し、ホモフォニーでは力強いハーモニーを実現します。別働隊のSchola Antiqua が北側のエンポールに陣取り、合唱とオーケストラとは離れた場所でグレゴリオ聖歌を歌ったのも効果的でした。音源が移動することでユニットの区切りがはっきりするわけですね。
 プログラムでバッハとイタリアとの間の抜き差しならぬ関係を洗い出し、それを最高レヴェルの演奏でプレゼンテーションする。当方この演奏を、演奏者に最も近い位置で聴きました(北側エンポールの最西席。西側オルガン前の楽隊席と反対の方向に別動グレゴリオ聖歌隊)。オーケストラの連中が笑顔で歌っているのも、テオルボが当意即妙にアルペジオを放り込んでくるのも、オルガンが歌との丁々発止を繰り広げるのも、別働隊がグレゴリオ聖歌典礼の「空気」を作り上げるのもすべて、目の前で繰り広げられたのです。鮮烈な体験。
 この演奏はMDR Figaro(中部ドイツ放送協会のラジオチャンネル)によって録音され、現地では2011年7月8日の20:05に放送されるそうです(ネット配信等の有無は不明)。仮に録音・録画が発売されたら、必ず買います。みなさんにもお勧めします。でも、あの至近距離の鮮烈な体験は独り占め。この日は教会員の方と“Heute Abend hat Himmelkönig gekommen”, “Ja, Stimmt!”と会話を交わして家路に着きました。
 この名演の余韻を聴衆の胸に残しつつ、バッハ音楽祭は翌日の千秋楽・バッハの《ミサ曲ロ短調》へ。まさにクライマックスです。


写真:(上)アンドレ・マルコン&ベニス・バロック・オーケストラ/(下)「歌いまくった」通奏低音、ダニエレ・ボーヴォ (ライプツィヒ・トーマス教会, 2011年6月18日)