ハレ・ヘンデル音楽祭(4)「イギリス系の真骨頂!」


 6月7・8・9日、ヘンデル音楽祭はイギリス系団体の圧倒的なヘンデル演奏に沸きました。7・8日はイングリッシュ・コンサート、9日はエイジ・オヴ・エンライトゥンメント管弦楽団の登場です。
 7日はハワード・アーマン指揮、MDR放送合唱団&イングリッシュ・コンサートで《オケイジョナル・オラトリオ Occasional Oratorio》HWV62。ジュリア・ドイル(S)、アンドリュー・トータイズ(T)、デリック・バラード(B)が独唱を担当しました。会場はハレ・マルクト教会。

 イングリッシュ・コンサート、すばらしい。よく響く教会で、細かい高音の動きと通奏低音が全くズレません。これは、遅れて聴こえがちなコンティヌオが、それを避けるためにアドヴァンス気味に演奏しているから。この「アドヴァンス」がまた、強力な推進力ともなり、楽曲の勢いを弱めることなく縦線を揃えるといった職人技に結びついてます。
 これはバロック音楽(通奏低音様式)演奏の基本中の基本。ところが、教会のように響きが特殊な会場でリハーサルをして、即座にその音響特性を見抜き、本番に活かせる音楽家はそう多くないのが実情です。ですからこの「基本」というのは「誰でも出来る」という意味ではなく「そうしなければならないが実現は難しいこと」という意味。それを涼しい顔でするのですから、イングリッシュ・コンサート、やはりただ者ではありません。
 それでこの日はもう、トランペットがこの上もなく立派でした。こんなに神々しいラッパの音を聴いたことがありません。すごい。と思って演奏者の名前を見たら、ナチュラルトランペット界の生き神(言い過ぎ?)マーク・ベネット。さもありなん。バスの佳唱ともあいまって、第21曲「我らが堅き砦、神に向かい高らかに歌え To God, our strength, sing loud and clear」はこの日の白眉となりました。
 翌8日は同じくイングリッシュ・コンサート。ハレ大聖堂を会場に、ピノック、マンゼから同楽団のバトンを受け継いだハリー・ビケットの指揮で《アチ、ガラテアとポリフェーモ Aci, Galatea e Polifemo》HWV72の演奏。「3声のセレナータ」とされるこの曲、実質的には「3声のカンタータ」ないし「3声の室内オペラ」といった趣の劇的作品です。アチと恋仲のガラテアに横恋慕するポリフェーモ。妬みの勢い余ってアチを殺してしまいますが、最後はそのアチがなにごともなく三重唱に参加して大団円。まぁ他愛のない話しです。ただ、劇的ではあります。
 イングリッシュ・コンサートの演奏が例によってすばらしかったのはもちろんのこと、この日はソリストの活躍も尋常ではありません。アチ役のソフィ・ビーヴァン(S)、ガラテア役のマリナ・デ・リソ(MS)もすばらしかったのですが、この日はポリフェーモ役のジョアン・フェルナンデス(B)にとりわけ大きな拍手を。
 バスは悪役ですが、この曲の魅力的なアリアはみなバスに割り振られているようにも感じます。実際バスはそうとう技巧が必要で、そのうえ演技力も、となるとなかなか負担が大きい。それを上手く捌いていくフェルナンデス。見事です。横恋慕の上、強引で乱暴な中年男の感じがよく出ています。ポリフェーモ、当たり役なのではないかしら?分かり安く言えば「吉良上野介西村晃」くらいの当たりっぷり(分かりやすいのか?)。リコーダーやオーボエら管楽器の仕事が光るアリアもあり、個人的にはとても満足。良い演奏でした。

 さて、9日はエイジ・オヴ・エンライトゥンメント管弦楽団がエリン・マナハン=トーマス(S)とともに登場です。合奏協奏曲、オペラのアリアをいくつか、合奏協奏曲で前半を、合奏協奏曲、独唱モテットで後半をまとめます。舞台はウルリヒ教会コンサートホール。
 まず、このオーケストラの「音の遠達力」はそうとうです。決して音が大きいわけではない。でも間近で演奏しているように聴こえてきます。こういう音は合理的な身体づかいから生まれてくるもの。弦楽器なら弓の上げ下げ、管楽器なら息づかい。これらが身体の合理性、すなわち腕の伸び、重力、肺活量といった事柄に逆らっていないから、もっとも良い状態の音=芯のある音が生まれ、その音は仮にピアニッシモでも遠くまで届きます。
 このオーケストラのすばらしいところは、第一に、そんな合理的な身体づかいを全員で実践している点。全員で実践してるから「音の遠達力」も並のものではありません。第二に、合理的という点で一致しているけれど、ドグマティックな弾き方に収斂しないこと。楽団員には小柄な女性から大男まで在籍しています。だから、身体の大きさに従って各々に合理的な身体づかいがあるのです。それを形骸化した「合理的奏法」に収斂させると、逆に不合理が発生します。各々の合理性をひとりひとりが保持することで、真の合理性に達している。それが、音の力強さに繋がっているというわけです。
 そういう楽団ですから、《合奏協奏曲》作品6-1や6-7、3-2での最弱音と最強音、個と集団、対位法とホモフォニーといった各対立項をきれいに描き分けます。そうなると聴くほうは、少しの引っかかりも感じずに音楽に集中。ヘンデルがコンチェルト・グロッソに込めた仕掛けの数々を克明に追うことが出来るわけです。

 マナハン=トーマスもその意味で合理的歌唱の人で、まず目立つのはその東海林太郎ばりの直立姿勢。それに無理がないのは、高音が伸びやかに会場に広がりつつも、音が拡散するのではなく、ツーっと細い針金のように耳に届いてくることから分かります。そんな自然体のソプラノの魅力が充分に発揮されたのが、後半の独唱モテット《風よ沈まれ Silete venti》HWV242。コロラトゥーラの技巧が光る一曲です。彼女の細いながらも芯のある声が、確かなリズムと精確な音程で超絶技巧をクリアしていきます。細くこしのある糸が散らばったビーズをつなげ首飾りに仕立てていくような印象。
 前半には《ジュリオ・チェーザレ Giulio Cesare》の「嵐で船は壊れ Da tempeste」や《アルチーナ Alcina》の「また私を喜ばせに来て Tornami a vagheggiar」を歌いましたが、やはり似合うのは《リナルド Rinaldo》の「涙の流れるままに(私を泣かせてください) Lascia ch'io pianga」。アンコールの「優しい木陰 Ombra mai fù」(《セルセ Serse》より)もまた彼女向きで、この自然体のソプラノの歌を最後まで存分に楽しむことが出来ました。
 それにしても、ホグウッド後のエンシェントと言い、ピノック後のイングリッシュ・コンサートと言い、イギリス系の老舗団体は世代交代が上手く行っていますね。彼の国の古楽奏者の育成状況には注目すべき点が多いのではなかろうかと思います。老舗も中堅もまだまだ勢いを保つイギリス勢が、ヘンデル人気とともにさらに演奏機会を増やしていきそう。そんなことを感じさせる3夜の演奏会でした。


写真:(上)イングリッシュ・コンサート/(中)エイジ・オヴ・エンライトゥンメント管弦楽団/(下)エリン・マナハン=トーマス