ハレ・ヘンデル音楽祭(1)「コレギウム1704の《メサイア》」

 

 中部ドイツ・ザクセン=アンハルト州の都市、ハレ。塩の産地として莫大な富を築き、18世紀には「塩のアテネ Salz-Athen」と呼ばれました。そんなかつての繁栄と、共産主義時代の爪痕とが現在、未整理のまま街に同居しています。

 音楽ファンにとってこの街は、ヘンデルの故郷として有名。この大音楽家を顕彰し、ハレで毎年行われるのがヘンデル音楽祭です。たくさんのオペラやオラトリオ、カンタータを書いたヘンデルの祭りに相応しく、声楽曲を中心としたラインナップ。数ある古楽祭の中でもとりわけ華々しいもののひとつです。
 ライプツィヒ・バッハ音楽祭にとって《ロ短調ミサ曲》が欠かせないのと同様に、ハレ・ヘンデル音楽祭にとって欠かせないのが《メサイア》です。このオラトリオを誰が演奏するか、地元のみならず世界中のヘンデル・ファンが注目しているわけです。今年は新鋭のルクス&コレギウム1704/コレギウム・ヴォカーレ1704が担当。どんな演奏を聴かせてくれるでしょうか。6月3日、ハレの市場教会に足を運びました。
 コレギウム1704(管弦楽)とコレギウム・ヴォカーレ1704(合唱)はプラハ古楽演奏団体。チェンバロ奏者のヴァーツラフ・ルクスが2005年に創設しました。若い演奏団体です。当夜の独唱者は、ラファエラ・ミラネジ(S.)、ヤニャ・ヴレティク(A.)、マルクス・ブルッチャー(T.)、マリアーン・クレイチーク(B.)で、イタリア・クロアチア・ドイツ・チェコの混成部隊。東ヨーロッパの演奏者で固められています。
 古楽には流派というのがあります。それは師弟関係とか演奏法とかサウンドとか、まあ、各パラメータによって複雑に入り組んでいますが、ノリという尺度でもひとつ言うことが出来て、そのノリの部分で一家を成しているのがカントゥス・ケルンです。よく言うと音楽の楽しみに積極的、悪く言うとまさに悪ノリの彼ら。それにも関わらずカントゥス・ケルンのアンサンブルが崩壊しないのは、驚異的な合奏/合唱精度を持ち、そのうえ全員が同じノリだから。ひとりでも引っ込み思案がいたら、他の奏者に飲み込まれてアンサンブルは崩れ去るでしょう。でも、彼らは全員が同じヴォルテージで演奏しているので、アンサンブルは妙なる調和を誇ります。
 ルクス&コレギウム1704/コレギウム・ヴォカーレ1704も、カントゥス・ケルンと同じノリの演奏団体と言ってよいでしょう。だから、彼らが《メサイア》を演奏する場合、第一義的に重要なのは「劇的であること」。テンポは速めでダイナミクスは大きくとる、細かいアーティキュレーション(旋律分節)に強めのアタックが相まって、全体に歯切れの良い印象。劇的であることがなにより大切なので、対位法もそのツールのひとつ(cf. バッハの《マタイ受難曲》で民衆の合唱が激烈な対位法で書かれていることに注目せよ)。だから対位法の各声部が多少混濁しても、それが迫力を生むためなら構わない。

 したがって、なかなか元気のよい《メサイア》で、楽しく聴くことが出来ます。しかし、いわば彼らの範型とも言うべきカントゥス・ケルンとは決定的な違いがあります。それがはっきりと現れたのが第1部「よきおとずれをシオンに伝える者よ O thou that tellest good tidings to Zion」。アルトの希望に満ちたアリアの後、合唱が「天の軍勢」として参加してきます。各声部が同じ旋律を順次歌い始める階梯導入の後、力強いホモフォニーへ。ここはたいへん感動的で、対位法を精緻に紡ぐ合唱の高い歌唱精度が、階梯導入とホモフォニーとの対比を鮮やかに描き出し、この「感動」を保証しているわけです。ところが、コレギウム・ヴォカーレ1704の合唱精度はそのレヴェルに達していません。パート内の音程と音色に不揃いなところがあります。また、アルトとテノールの弱さが立体的な音響設計を妨げています。ホモフォニー部分の迫力はありますが、階梯導入部分の対位法が濁ってしまっています。これではこの楽章の持つ真の「劇的性質」を表現することは出来ません。
 つまり「劇的性質」と「音楽の精度」は本来、二律背反しないのです。しかし「1704」の技術水準がこれら2つを二律背反の状態にしています。カントゥス・ケルンは技術的な水準を最高に保ち、それを担保した上で迫力や面白みを出すために工夫をしますが、「1704」は精緻さと迫力とを天秤にかけなければならない、そういう水準にいるということ。これは残念なことですが、若い団体の現状としては許容できるのではないかと思います。
 問題は「1704」が今後、カントゥス・ケルンを代表とする「ノリノリ派」の本流となるためには、そのあたりの錬磨が絶対的に必要だということです。「1704」についてはその点で、全く悲観していません。きっと乗り越えてくれるだろうと思っています。《メサイア》、演奏会自体はとても楽しいものでした。これもひとえに演奏者自身がそうとう楽しんでいるから。ノリノリ派に特有の「会場巻き込み型パフォーマンス」です。これが出来るのだから、技術水準等の訓練次第で後からどうにでもなることがらは、物の数に入りません。コレギウム1704が第二のカントゥス・ケルンとなる日はいつか。その日が来るのを心待ちにしています。


追記:この日の独唱者について
 ラファエラ・ミラネジ(S.)、ヤニャ・ヴレティク(A.)、マルクス・ブルッチャー(T.)、マリアーン・クレイチーク(B.)がイタリア・クロアチア・ドイツ・チェコの混成部隊であることは先述の通り。それで、英語がもう、大変になまっている。ブルッチャーは「ei」の二重母音が出てくると「アイ」になってしまうし、ミラネジは「r」はすべて巻き舌。東欧ふたりは母音がスラブ風で、これまた特徴的。でも、少しも不満はありません。これが国際的な音楽演奏のありようです。面白がって聴きました。
 さて、ブルッチャー(T.)は昨年、ガチガチの喉でライプツィヒ・バッハ音楽祭のステージにあがり「大やけど」をしたテノール。当夜はリラックスした様子で及第点。ヴレティク(A.)は《こうもり》のアデーレが似合いそうな風貌ながら、歌ってみたら野太いアルト。声帯が大きいのでしょう。声質が魅力的。今日一番です。クレイチーク(B.)は受難曲のイエス役が似合いそう。バッハ方面の出演があったら聴きたいところ。ミラネジ(S.)だけは受け入れがたい。《I know that my Redeemer liveth》冒頭の「I」のアウフタクトから踏ん張ってコブシ付きで歌うような歌手は、趣味の問題として許容できません。もちろん、そういうのがお好きな方にはおすすめ。


追記2:アンコールについて
この日、アンコールがありました。大規模声楽曲の公演では異例ですね。まさかとは思いましたが、やりましたよ、ハレルヤコーラスを。会場も大満足ですね。こういう楽しいの、嫌いじゃありません。もちろん「エア・ハレルヤ」で合唱に参加!


写真:(上)ハレ・マルクトの様子/(下)ルクス指揮, コレギウム1704&コレギウム・ヴォカーレ1704のアンコール「ハレルヤコ−ラス」の様子。この写真はちょっと被写体がすごくて、手前の「桶」はヘンデルが洗礼を受けた洗礼盤、指揮者の前方に見える多翼祭壇画はクラーナハ、画面上方の小オルガンはツァホウがヘンデルの鍵盤レッスンに使ったとされるオルガン。そこで《メサイア》を演奏している。