ライプツィヒ・バッハ音楽祭(4)

クラヴィコードに耳を澄ませるように

 バッハが最も愛した鍵盤楽器といわれるクラヴィコード。同時期に活躍したチェンバロとは発音の仕組みが違っていて、機構はどちらかというとピアノに近い楽器です。ですから、チェンバロにできずピアノにできることは、クラヴィコードでもおなじく可能。たとえば、フォルテとピアノを引き分けたり、クレッシェンドをかけたり。さらにクラヴィコードは、ピアノにもできない「必殺技」を持っています。鍵盤楽器としては想像しがたいことですが、ヴィブラートが可能なのです。これは、弦を打った後に鍵盤を上下させることで張力に変化を与え、細かい音の揺れ動きを表現します。
 とても高性能な楽器で、音楽の表現の幅がとても広い。それにもかかわらず、現代に生き残らなかったのには理由があります。とても音が小さい楽器なのです。半径50cmの楽器といってよいかも知れません。自分で演奏し自分で聴く、練習用の家庭楽器、それがクラヴィコードの役割でした。ですから音が大きい必要がなかったのですね。
 この楽器を演奏会で使うと面白いことが起きます。聴き手は、自分が想像しているよりずっと小さな音に驚きます。そして、ぐっと耳を凝らして、文字通り息をのんでこの楽器の奏でる音に集中しようとします。耳がなれたころにき聴こえてくるのは、音は小さいけれど、多彩な表現に満ちた魅力的な音楽です。クラヴィコードでの演奏会を企画する音楽家はみな、この演奏者と聴衆の親密な瞬間を楽しみにしているのではないかとさえ思います。
 6月12日、ライプツィでも豪華な装いを誇るニコライ教会に足を運びました。当夜は、地元の音楽家たちがマティアス・ゲルネを独唱者に迎え、バッハのバス・カンタータを演奏しました。<我、満ちたれり>BWV82、<汝に平安あれ>BWV158と続き、<管弦楽組曲第2番ロ短調>BWV1067を挟んで、<よろこびて十字架を負わん>BWV56で終える渋いプログラム。ゲルネの歌唱を堪能するのに充分の内容です。歌手を支えるのは、カペラ・ヴォカリス・ライプツィヒと新バッハ・コレギウム・ムジクムです。
 ニコライ教会は音響に若干の不安がある会場です。懐が深い内陣の前に演奏者は陣取りますが、背後に奥行きがあるにも関わらず反響板がなく、そのうえ天井が高いので、音が演奏者のそばで雲散霧消してしまうかのような印象を受けることがあります。当夜もその問題点が現れていました。かんたんにいうと、実際の距離より遠くで歌っているように感じるのです。
 しかし、それに耳が慣れてくると途端に迫り来るのは、ゲルネの歌声が織り成す音楽のひだです。リートで鍛えた表現を少し抑制して、19世紀とは異なる18世紀の「言葉と音楽の関係」に注意を払っています。オーケストラとの息も合っています。密なリハーサルが行われたことでしょう。演奏者にとっても聴き手にとっても、親密さがひしひしと感じられる演奏です。
 耳を凝らすと聴こえてくるのは、多彩な表現に満ちた音楽。クラヴィコードと同様の魅力がこの日の演奏会には現れていました。演奏会を締めくくったBWV56の最終楽章「おお、来たれ死よ」。このコラールを歌う合唱に、ゲルネが自然と声を重ねます。この日の演奏会の「親密さ」を象徴しているようです。

写真:ニコライ教会周辺