日本音楽学会全国大会


 音楽学者って何をしている人たち?そんな疑問に真っ向勝負で答えてくれるのが、日本音楽学会の研究発表会。10月25・26日、東京の国立音楽大学で当学会の全国大会が開催された。東洋音楽・西洋音楽・音楽教育・音響学・美学ほか各分野にわたる発表と、いくつかのシンポジウムが持たれ、部会によっては侃々諤々の議論があった模様。
 わたくしもいくつかの発表に聴衆として参加し、いつものとおり「質問テロ」を繰り返してきた。若い研究者の発表のレヴェルが向上しているようで頼もしい。ただし、研究(research)のレヴェルが向上したというよりも、調査(survey)のレヴェルが向上したに過ぎない。
 資料調査の申し込みはメール、数的処理は表計算ソフト、図像の複製はデジタルカメラと、コンピューター関係のツールが大活躍している。そのおかげで、研究のための基本的な調査は以前に比べて容易になっている。その分、調査も精密に行えるというものだ。
 一方で、研究のレヴェルは留まっているか、ともすれば下がっているように感じる。たとえば、こんな発表があった。
 ある仏教寺院で催されたページェントのプログラムが、その寺院の地域で起こった争乱の前後で変化していることに迫った「調査」の発表。プログラムが変化したことは、資料を掘り起こせば(それ自体は大変な作業で敬意を表するが)誰にでも分かること。研究として重要なのは、その変化が起こった理由を解き明かすことではないのだろうか。ひいては、その理由の内に人間の行動の原理的側面や「業」を探ることが人文科学の役割ではなかっただろうか。
 現状の調査では、変化したことしか明言できない、と発表者は言う。ではなぜ、変化の理由の可能性をいくつか示し、どういう資料が見つかればそれらの可能性が蓋然的と言えるようになるのかを考えようとしないのだろうか。
 問題は結局のところ、学問的想像力と推論能力の不足なのだろう。過日発表されたノーベル物理学賞は、物理学上の未来予測(のちに実証された)に対して贈られた。調査のレヴェルは高いけれど、想像力の欠けた安全運転の発表ならもうたくさん。豊かな想像力で大胆な仮説(もちろん蓋然性は必要)を提出し、議論を通じて将来の実証に備えるほうが研究発表としては建設的だ。


写真:バッハ学者によるラウンドテーブル(国立音楽大学)