戸下神楽にみる「虚階」


 宮崎県北部、天孫降臨の神話で有名な高千穂にほど近い諸塚村(もろつかそん)。ここでは周辺の町や村と同様、古来の神事芸能・神楽(かぐら)の伝統が守られている。諸塚神楽には3つの系統があるが、そのうち戸下集落に伝わる神楽の公演が、<東京の夏>音楽祭のプログラムの1つとして実現。このたびは、10年に1度の大神楽で行われる秘曲「山守」も披露してくれた(7月21日、草月ホール)。
 公演日の10日ほど前に主催のアリオン音楽財団から1通のFAXが届いた。それによると公演は午後3時に開演し、午後9時まで休みなく続くとのこと。なるほど、縮尺板とはいえ、夜通しの神楽の再現を心がけるということか。当日もアナウンスがあり、公演時間が告げられた瞬間、笑いとも溜め息ともつかぬおかしな声があちこちから漏れた。出入り自由ということもあり、当方はおよそ半分を観賞し、午後6時頃においとました。
 山の神と神主との問答と諍い、そして和解(=五穀豊穣)を描く秘曲「山守」も興味深かったが、その後の演目「御大神」に、より感興をそそられた。「御大神」は「神降ろし」の舞で上中下の3番があるが、この日は「序破急」の急にあたる「下」の披露。しつらえや舞にも妙味があるが、今回は音響面に触れておきたい。
 神楽の舞台として設置されているのが「御神屋(みこうや)」と呼ばれる小屋。椎の木と青竹とで組まれた東屋風の舞殿で、正面には「高天原」の祭壇がしつらえられており、下座には鼓型の締め太鼓が両面を打つよう寝かしてある。そこに登場するのが、手に御幣と鈴を持った3人の舞人。楽人は太鼓2人と笛が1人だ。
 音響面を整理すると、舞人の唄、鈴、笛、太鼓(1)、太鼓(2)が発音体で、これらがアンサンブルを繰り広げる(もちろん足袋が畳を擦る音、舞人の無駄口、たき火の薪がはぜる音などのサウンドスケープも重要だが)。つねに奏されるのは、枠を打つ太鼓(2)。西洋音楽風に言うと、4/4拍子の4拍目で8分音符を2つ叩き1拍目で8分音符を1つ叩くアウフタクトからの3連打。このリズム・オスティナート上で、太鼓(1)が強拍を強調するリズムを打ったり、笛が簡単な音型を吹いたり、舞人が鈴を鳴らしたり唄ったりする。
 リズム・オスティナートの太鼓(2)以外は、ときに応じてアンサンブルに参加したり、沈黙したりする。そのタイミングは第1の舞人が掛け声で知らせる。あるときは「太鼓(1)(2)・笛・鈴・歌」の総奏だが、合図があると歌と笛が抜け、また合図があると鈴と太鼓(1)が抜け、また合図があると太鼓(1)が戻り・・(それに伴い舞も刻々と変化する)・・といった具合に時間が分節されていく。
 ここで注目したいのは、アンサンブル概念としての「虚階(こかい)」。「虚階」というのは、いまは音が鳴っていなくても、あたかも先ほどまでと同様に音が鳴っている、と想念することをいう。つまり、実際は太鼓(2)のオスティナートしか鳴っていないのに、そこに先ほどまで響いていた太鼓(1)と笛の音を観念上で聴く、といった精神の働きのことだ。
 「虚階」は真言宗の木鉦の打ち方に由来する用語。同じリズムパターンを3度繰り返すとき、2度目を沈黙して聴き手の想像の内にリズムを再現させる。同じような概念は雅楽にも存在している。「残楽(のこりがく)」がそれだ。有名な例は「平調越天楽残楽三返(ひょうぢょうえてんらくのこりがくさんべん)」。同じ節を3度繰り返すが、琵琶と箏以外は回を追うごとに抜けていき、3度目の後半には箏だけが残り旋律がほとんど失われる。聴き手は記憶に残っているメロディーを3度目の箏に重ね合わせ、自分の心中に「越天楽」を作り上げる。仏教の聲明にも同様の考え方(無言唄[むごんばい])がある。
 仏教や雅楽といった(日本に古くから伝わるとはいえ)大陸渡来のハイカルチャー的な事象に顕著な「虚階」概念。これが、民間伝承である戸下神楽にも確認できた。この心の働き、鳴かぬ烏の声を聴く精神性は、われわれの思考の根っこにある事柄のようだ。渡来後に日本化する過程で雅楽や仏教にもこの概念が適用された、とみてもよいかもしれない。
 こんなことを考えていると、あの時の太鼓や笛、舞人の唄や鈴の音が耳の奥によみがえる。なるほど、まさに「虚階」を聴いているというわけだ。


写真:戸下神楽 (C)永松敦