ジスモンチ・オーケストラ・コンサート


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 エグベルト・ジスモンチ(Gismonti, Egberto)、1947年ブラジル生まれ。ブラジル音楽院からパリへ渡り、管弦楽法や作曲法を学ぶ。帰国後、ブラジルの土着文化に傾倒し、西洋古典音楽とブラジル民族音楽の融合を実現。1970年代から活躍を続け、現在、ピアノ、ギター等の奏者として、また作曲家として才能を発揮している。
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 そんなジスモンチのオーケストラ作品を聴く夕べ、サミットのため警備の厳しい赤坂付近・紀尾井ホールが会場です。共演は沼尻竜典率いる東京フィルハーモニー交響楽団。自作管弦楽作品と即興(風のソロ)演奏で構成されるオール・ジスモンチ・プログラムは、管弦楽のみ・ピアノと管弦楽・ギターと管弦楽・ギターソロと編成も弾力に富んでいます。アリオン音楽財団主催<東京の夏>音楽祭2008の冒頭を飾るオープニング・コンサート。注目の公演です。

 さて演奏会の成否について、評価の視点はいくつもあるでしょう(楽曲、編曲、演奏技術、ノリなど)。当夜は自作自演の演奏会であったことに鑑み、ジスモンチの楽曲と編曲、そして管弦楽法について考えてみます。

 当夜のプログラムにあがった楽曲を、編曲(編成換え)の観点から分類すると、次の通りです。
(1)管弦楽オリジナル(<Strawa no Sertao><Sertoes Veredas Suite>)
(2)ギター・オリジナル(即興的に披露された曲名不明の2曲)
(3)ピアノ→ピアノ+管弦楽(<7Aneis><A Fala da Paixao><Forrobodo><Frevo>)
(4)ギター→ギター+管弦楽(<Lundu><Danca dos Escravos>)
(5)ギター→ピアノ+管弦楽(<Memoria e Fado><Meninas>)
 ソロ楽器のための楽曲を管弦楽版に編曲する際、ジスモンチは(演奏スタイルとしての)「ジャズ・セッション」を想定しているように思います。というのも、(3)(4)(5)に共通する特徴として、ピアノないしギターによる「リズム・オスティナート」が挙げられるから。「リズム・オスティナート」とは同一リズム型を執拗に繰り返すこと。ジスモンチはピアノやギターが持つ一側面、すなわちソロやジャズ・セッション(たとえばピアノ・ベース・サキソフォン)のときに必要とされるリズム楽器としての側面を、ピアノやギターから奪わなかったわけです(一方、もともと打楽器部門があるはずの管弦楽からはそれを奪ってしまった)。

 ソロであればひとりで旋律も和音もバスもリズムもこなさなければなりません。それを実現するのにピアノや多弦ギターは都合のよい楽器です。一方、管弦楽はそれらの機能をほぼ完全に内蔵した装置。ピアノや多弦ギターが旋律・和音・バス・リズムの機能を「仮設的」に担っているのとは対照的に、管弦楽はそれらを「完全」に実現します。たとえば、ピアノなら「打楽器的」に演奏する場面を、管弦楽なら「打楽器」が演奏するでしょう。

 一般的に言って、ピアノが「打楽器的」にリズムを刻むより、「打楽器」自身がリズムを刻んだ方が望ましいのではないでしょうか(cf.ラヴェルボレロ>)。餅は餅屋です。編曲に際してそういう管弦楽法の一般論が捨てられているのは、ジスモンチが管弦楽との共演を「ジャズ・セッション」のようなものと理解しているからにほかなりません。それは1つの見識で、当夜その成果が現れたのが前半の最後に演奏された<Forrobodo>。ベートーヴェンの<第7交響曲>を思わせる複合拍子が、ポリリズム(2拍子系と3拍子系の同居)や表拍と裏拍の錯綜(「ターッタラ、ターッタラ」と取るか「タラッター、タラッター」と取るか)を導きます。それによりジスモンチとオーケストラの各パートとの丁々発止が随所にみられ、当夜もっとも刺激的な一曲となりました。

 しかし、こういった演奏が実現しないと「ジャズ・セッション」を想定した編曲はとたんに力を失います。ピアノが(餅を餅屋に任せずに)何から何までしようとして、管弦楽はそこに少し合いの手を入れるだけのように聴こえるから。丁々発止のジャズセッションとしてなら成立するも、古典的な管弦楽曲の枠組みで捉えるとつまらなくなる。<Forrobodo>を除く6曲は、残念ながら後者の結果になってしまいました。この問題は、オーケストラの団員が音楽家としての主体性を発揮するか(それはオケの団員としては「邪魔なもの」とされていなくもない)、指揮者が従来のピアノ協奏曲やギター協奏曲の概念を捨てて演奏に取り組まない限り、解決不能。ジスモンチと沼尻、リハーサルでそのあたりの擦り合わせがうまくいかなかったのでしょう。

 さて、分類(1)にあたる管弦楽オリジナル作品、とりわけ<Strawa no Sertao>に、ジスモンチの「正統的西洋音楽作曲家」の片鱗を聴いた思いがします。弦楽器のピチカートと管楽器を重ね合わせることで、弦でもない管でもない音色を作り出すあたり、フランス近代音楽の香りを漂わせますし(パリ留学の成果!)、速いパッセージの後にゆったりとしたグレゴリオ聖歌風(というより旋法風か)のユニゾンを置くにいたっては、モーツァルトすら彷彿とさせる音楽作り(cf.<ホルン協奏曲第1番>KV412の第2楽章「エレミヤの哀歌」引用部分)。
 このような「古典的」なたたずまいに、がぜん力を発揮したのが指揮者の沼尻。スコアの見通しがよかったのでしょう、管弦楽の方向性が定まっており、他の曲にはみられないパフォーマンスを発揮しました。管弦楽に限って言えば<Strawa no Sertao>が当夜もっとも安定していたのではないでしょうか。

 分類(2)の即興的に披露されたギターソロでは、ジスモンチがのびのびしていたように感じました。理由は2つ、ピアノから開放されたこと、管弦楽からも開放されたこと。ジスモンチのソロに関しては月曜日の公演でも聴くことが出来ますので、レポートはそちらにまわします。お楽しみに。

 思えば、バッハもモーツァルトベートーヴェンポール・モーリアも、自作自演の演奏会を催していました。演奏家(指揮者でなく器楽奏者ないし歌い手)と作曲家が一致していれば、それは当たり前と言えましょう。翻って当世、なかなかそういう機会に恵まれません。また当方、ついこの間まで「250年以上前の曲を中世からつづく教会で聴く祭り」に参加していたため、同時代人の自作自演演奏会に出掛けるのは刺激的で愉快な体験でした。


写真:ジスモンチ (C)photo by uga


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追記
 「ソロ+管弦楽」のうちいくつかの曲がぱっとしなかった、という点については触れた通りですが、それではその責任は誰に帰するのか、という点には触れていません。「指揮者の采配がまずい」「オーケストラのノリが悪い」というのが大方の意見だと思います。それは否定しませんが、最大の責任者は作・編曲者としてのジスモンチだとわたくしは考えます。平たく言うと「演奏がつまらないというよりは編曲がつまらない」ということ(編曲前のソロ編成だとよさそうなのですが)。
 というのも、オーケストラ相手にジャズ・セッション並の機動力や即興性を求めるのがそもそもお門違いだから。ジスモンチの編曲は、相撲取りにブレイクダンスしろ、と言っているようなものです。なかには機敏な力士もいるかもしれませんが、それは「踊れる力士」が器用なのであって、ブレイクダンスが「無茶振り」であることに違いはありません。相撲取りには相撲取りの得意な所作、たとえば四股があるのですから、ジスモンチはオーケストラに堂々と「四股」を踏ませる編曲をすればよかったのです。
 そういった視点からすると、指揮者の采配の不具合やオーケストラのノリの悪さ「だけ」を批判するような意見に与することはできないなあ、と思います。ジスモンチの編曲の不備を指摘する向きが見られないのは、ジスモンチがそれだけ「アウラ」のある音楽家だということでしょう。そういった「宗教的な威光」はアーティストにとってとても大切なもの。しかし、だめなものはだめ、と言わないとアンフェアですね。そもそもジスモンチが望んでいるのも、音楽家同士のフェアなインタープレイでしょうから。