ライプツィヒ・バッハ音楽祭 (9)


6月17日、パスティッチョだっていいんです!


 寄せ集めでできた作品のことをパスティッチョと言いますが、ふつう、よい意味では使いません。でもそれは、オリジナルをことさら重視する近代的藝術概念に則っているから。寄せ集めでできた「作品」が時宜にかなって好もしいものであれば、それを劣ったものとする理由は、実際のところありません。
 そんな視点から眺めてみると、パスティッチョのほうがむしろセンスを問われる仕事であることが分かります。というのも、すべては組み合わせの妙にかかっているわけですから。自作であれば好きなように作り上げることが出来ますが、他人の曲を利用してひとつの「作品」に仕立てるとなると、組み合わせに創造性を働かせるほかありません。
 バッハは自作を含む「既成曲」を利用するのが得意でしたから、パスティッチョでもなかなか味のある受難曲を仕立ててくれています。それが当夜のプログラム、<エドムより来たる者>です。この受難曲は、C・H・グラウンを中心に、第1部の冒頭にテレマン、第2部の冒頭にバッハ自身の曲を配置したパスティッチョ作品。三者三様のスタイルがそれぞれにはっきりと刻印されていて、その対比が鮮やかな楽曲です。歌詞の内容や、1曲1曲の音楽面だけでなく、パスティッチョの妙で受難曲の劇的な性質を浮き彫りにする辺り、バッハの職人技が透けて見えて、感心させられます。

 この日は、ライプツィヒ大学音楽監督のダフィット・ティム率いる大学オーケストラが管弦楽を、地元ライプツィヒ声楽家たちがソリストと合唱を担当。トーマス教会での演奏です。当初、まがりなりにもアーノンクールガーディナーらもやって来る音楽祭に、このメンバーで大丈夫か、と思っていました(失礼!)。でも、それは大きな間違いであったと深く反省しています。
 当夜の演奏は、教会音楽の街を自任するライプツィヒの名に恥じず、たいへん立派でした。声楽陣にははじめのうち多少のパワー不足を感じましたが、その割には歌詞が自然と平土間にも届きます。ライプツィヒカンタータや受難曲を歌い続けてきた彼らは、どう発声し、どう発音すれば歌詞が聴衆に届くかを熟知。はじめのうちのパワー不足とて実は計算されたもので、最後まで同じ声量・音程を保つために力を温存していたわけです(<ヨハネ受難曲>で後半著しく失速したプレガルディエンと好対照)。
 そんな熟練の歌手たちを支える若い器楽奏者の働きもすばらしいものでした。大学オーケストラは綿密な練習を重ねに重ねた様子で、ティムの考えが隅々まで深く浸透しています。指揮者の指示にすばやく反応し、ときに臨機応変に対応する柔軟性は一朝一夕のリハーサルでは実現できません。個々人の能力も高く(とくに弦楽器)、古楽の奏法が板についています。とりわけ耳をひいたのは、合唱のポリフォニーを支えるコラ・パルテ(器楽が合唱の声部を補強すること)。声楽の各声部と見事に融合し、高い効果を上げました。
 器楽と声楽の融合を練習場で実現しただけでなく、音響の難しいトーマス教会でも達成したところに、指揮者・ティムの手腕が光ります。彼はトーマス合唱団出身。トーマス教会のどの場所に独唱や合唱を配置し、オーケストラをどのように鳴らせば、平土間の聴衆に音楽が届くのかを身体で覚えているのです。
 曲の面白さ、達者な声楽陣、足並みの揃った管弦楽、音響を把握した上で両者をまとめあげる指揮者。必要な条件がすべてそろった当夜の演奏がよくないはずもなく、幸せな気分でホテルへと引き上げ。この日の寝付きがよかったことは言うまでもありません。


写真:女声合唱陣(トーマス教会)