ライプツィヒ・バッハ音楽祭 (6)
6月14日、<ヨハネ受難曲>(第2稿・1725年)
バッハは<ヨハネ受難曲>を4回上演しています。1724年の初演以降、上演のたびに改訂を行ったので、結果として4つの稿が残されました。当夜はその第2稿、1725年版での演奏です。
第2稿には、よく知られた版といくつかの点で違いがありますが、もっとも分かりやすいのは冒頭曲と終曲。第2稿は、のちに<マタイ受難曲>第1部の終曲となるコラール「おお人よ、お前の大きな罪を嘆くがよい」で始まります。そのため、この日もびっくりするお客様が少なからずいた模様。<ヨハネ>と思って耳をすましていたら<マタイ>が流れるのですから、さもありなん。ちなみに終曲は、カンタータ<汝まことの神にしてダビデの子>BWV23 のコラール「キリスト、神の子羊よ」を用いていて、その他2、3のアリアにも変更があります。
さて、ダニエル・ロイス率いるコレギウム・ヴォカーレ・ヘントが、プレガルディエン(tenor)やコーイ(bass)ら実力者を迎えて送る<ヨハネ>。前評判も芳しく、トーマス教会の御堂はお客様でいっぱいです。当夜は、バッハが目指した「整えられた教会音楽」もかくや、と思わせる合唱団・管弦楽と、「受難曲」を演奏しているというわきまえのない一部のソリストが、好対照をなしました。
まずは、トーマス教会の難しい音響を把握し、会堂いっぱいにはっきりと音楽を響かせたロイスの采配に脱帽。トーマスでの公演は「音響との闘い」。2007年、アーノンクールも音響の点で失敗しました(ソリストの配置が悪かった)。それを制したロイスは、もう半分、公演を成功させたようなものです。
第2に合唱と管弦楽。ホモフォニックなコラールでも、ポリフォニックな楽章でも合唱団は足並み、音程、音質、方向性を決して乱しません。名門合唱団RIASの音楽監督だったロイスの面目躍如です。一方、合唱を支え、ときに独自の効果を発揮する管弦楽の「分別」に感心されられました。歌に寄り添うときは出しゃばらず、劇的効果を期待されるときは存分にその力を発揮する。やわらかい音色でさえくっきりと(しかしやさしく)響くのは、通奏低音群の土台が揺るぎなく、その上で浮遊感のある管楽器や高音弦楽器が踊るからでしょう。
この両者が最大限に力を発揮したのが、11を数えるコラール楽章です。とりわけ、<ヨハネ受難曲>のテーマ「キリストの捕われがわたくしたちの自由」という逆説を、もっともはっきりと示した第22曲。ロイスがここに頂点を築くべく音楽を作り上げたことは、第22曲の間合い、行き届いた神経、抑制された(だからこそ表出力の強い)表現から明らかです。ホ長調のこのコラールは、その他10のコラールに比べ凝っているわけではありませんが、その簡素な姿ゆえ、いっそうメッセージ性を強めているようです。わたくしは、このロイスの解釈はパーフェクトだと思います。そして、それをライブで実現する高い集中力に賛辞を惜しみません。
他方、個々の実力の高さは折り紙付きながら、当夜、おおよそ受難曲を歌うのにふさわしくなかったのが、福音書記者・プレガルディエンを初めとする一部のソリストです。人気・実力ともに世界有数のテノール、プレガルディエン。しかし、彼がシューベルトの<冬の旅>とバッハの<ヨハネ受難曲>を同列に(同じような表現の枠組みで)歌うことを正当化することはできません。
バッハは当時の音型論や調性格論、和声や楽器法を駆使して、受難曲の物語世界を細部まで彫琢しました。それに対して歌手ができることは、それらの書法を深く理解し、齟齬が生じない範囲で自らの表現を実現すること。歌詞の表面的な意味にいちいち(見当違いな)激しい強弱や音色の差異をつけるようなことは、勉強不足の上、分不相応です。実力が高いからこそ求められる、更なる学習とわきまえ。「美声・上手い」だけではどうにもならない「バッハの壁」はたしかに存在しています。
それを差し引いてもやはり、合唱と管弦楽の活躍には快哉を叫びたいと思います。両者を精緻に統率した指揮者ロイスにも。彼らは自分たちが、これからのライプツィヒ・バッハ音楽祭に必要な人材であることを、じゅうぶんにアピールしました。来年以降の再登板が楽しみです。
写真:バッハ像(ライプツィヒ・トーマス教会)