『リリー、モーツァルトを弾いて下さい』

多胡吉郎『リリー、モーツァルトを弾いて下さい』河出書房新社, 2006年

 モーツァルト生誕250周年の2007年、この大作曲家の誕生を祝う催しが毎夜持たれたと言っても過言ではない。半世紀前の200周年とて事情は同じだろう。世界中の音楽家が、昼に夜にモーツァルトの音楽を響かせていた。その過当競争の中にあって、当代一のモーツァルト弾きと讃えられたピアニストが、リリー・クラウスである。
 20世紀の初頭に生まれ、1986年に世を去った彼女の人生が戦争に翻弄されたことは想像に難くない。本書が描くのは、大戦の時代を生きた演奏家の数奇な生涯だ。
 ハンガリーに生まれウィーンで学んだクラウスは、ナチスによる統治を嫌い、北イタリアに居を移す。安寧を取り戻したこの時期に初来日を果たしたクラウス。ヴァイオリンのゴルトベルクとともに伝説的な演奏を披露し、日本の聴衆の喝采を浴びる。幸せな日々も束の間、クラウス一家は軍靴の響きに追われ、ニュージーランドへの移住を決意する。しかし新天地への途上、演奏のために立ち寄ったジャワで日本軍に拘束され、戦争の渦により深く巻き込まれていくことになる。
 クラウスにとって、ジャワでの5年間が一生で最も不幸なときだったことは間違いない。だが、この5年間なくしてあれほどの音楽の深みに到達できただろうか。彼女がジャワで演奏したモーツァルトの音楽は、18世紀ヨーロッパの地域文化に過ぎない。それが、抑留者の日本人、被抑留者の西洋人の立場を超えて人々の心に染み渡ったとすれば、リリー・クラウスの技と熱情とがある種の「普遍性」を持っていたからだと言えよう。
 クラウスが大変な親日家で、戦後、頻繁に来日公演をしたことは有名だ。一方、戦中ジャワで日本軍に抑留されたことも、多くの音楽ファンの知るところである。しかし、親日と抑留、この両者の「ねじれ」について詳細を知る人はほとんどいない。本書は「取材やリサーチによってできる限り事実を押さえ、その構造のなかで想像を膨らませるスタイル」でその謎に肉薄している。なるほどそのやり方は、リリーが楽譜から情感豊かな音楽を紡ぎ出すのにそっくりである。


初出:時事通信配信



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